北海道の近代を開いた最古の鉄道 国鉄手宮線【後編】
ぶらり大人の廃線旅 第23回
■通称「石山」と呼ばれた手宮旅客駅
ほどなく左側に小さな崖が見えてきた。かつては西側の石山から伸びてきた尾根の終端であったが、西に並行する道路の建設で削られたため、崖といってもごく一部が残っているに過ぎない。そちらの山は現在も「石山町」と称するが、これは前述の倉庫によく用いられる軟石を産出する石切場があったことに由来する。崖の突端のこの位置には手宮旅客駅があったはずだ。
手宮線は石狩炭田での出炭量の急増により石炭の積出港たる手宮駅が明治30年代から手狭になっており、明治39年(1906)に北海道炭礦鉄道が鉄道国有法による国有化が行われた際に旅客輸送を廃止してしまった。同43年頃には複線化されるのだが、それまで旅客列車を利用していた住民からの強い要望により旅客輸送が復活され、貨物駅から600メートルほど南側のこの場所に旅客列車専用駅が新設された。ところが場所の異なる貨物駅と旅客駅の名がどちらも「手宮」では混乱するので、鉄道職員たちは旅客駅の方を「石山」と呼んで区別していたという。これは現場の案内板に記されていたことである。
少し歩くと立派な洋館の裏手に出るが、これが旧日本郵船小樽支店だ。重要文化財に指定された明治39年(1906)竣功の重厚な建物で、昭和30年(1955)に日本郵船から小樽市に譲渡されている。開業当時の線路は建物の正面側、つまり今の廃線の東を並行する道路上を路面軌道で走るルートだったのだが、民家の前を機関車が通る危険な状況であったため、明治36年(1903)の大火後に専用軌道に移設したものだ。