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女性客ゼロだった江戸の銭湯は、なぜ混浴で賑わい始めたのか

仰天! 入浴の日本史⑤ 「入り込み湯」と江戸の入浴事情

風俗史家・下川耿史さんの監修でお届けするコラム「仰天! 入浴の日本史」、今回取り上げるのは1656~1853年頃。簡易遊郭の性格が強かった湯女風呂は営業を禁止され、普通の銭湯へと転換。身分や性別といったすべての壁を超越した、混浴の社交場となった。

◆吉原遊郭へ送られた湯女

 湯女(※入浴客の世話をする女性)が遊女化していき繁盛したことが、かえって湯女風呂の寿命を縮める結果となった。
 夜間営業の禁止で打撃を受けていた吉原遊郭は、抱えの遊女を湯女風呂に派遣し、マージンを稼ぐという荒技に打って出た。そのことが幕府に発覚し、業者11人が磔(はりつけ)に処されるという事件も起きている。さらに吉原にとって痛手となったのが、明暦2年(1656)10月、日本橋から浅草の奥の日本堤への移転を命じられたことだ。

「吉原側は移転を受け入れる代わりに、湯女風呂の禁止を求めました。幕府はその条件を受け入れ、新しい吉原が完成したのと同時に、湯女風呂をすべて取り潰したのです。そこで働いていた湯女は、すべて吉原遊郭へ送られ、遊女となりました」と、風俗史家の下川耿史さんは語る。

 江戸時代初期の銭湯は、町に女性の数が極端に少なかったことや、遊女のような湯女のいる場だったため、女性客は皆無と言ってもよかった。湯女風呂が禁じられてすべての湯女が吉原へ送られると、銭湯に女性客がやってくるようになった。銭湯側はいきなり風呂を拡張することもできないので、多くの銭湯は「入り込み湯」と呼ばれる混浴だった。女性たちも多くは混浴が普通だった田舎から出て来ていたため、抵抗は少なかったようだ。男女だけでなく、武士や町人という身分の差もなく混浴であった。裸になれば本音の交流が楽しめたのだ。

 
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下川 耿史

しもかわ こうし

1942年福岡県生まれ、早大文学部卒。サンケイ新聞社出版局を経て,72年からフリーライター。性の風俗史や性の民俗史の研究を中心に活動している。著書に『エロティック日本史』(幻冬舎)『盆踊り 乱交の民俗学』(作品社)、『日本エロ写真史』『混浴と日本人』(以上ちくま文庫)など。


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