兵士も武器もない大海人皇子はどうやって壬申の乱に備えたのか
古代史上最大の内乱戦争! 大海人皇子VS大友皇子 「壬申の乱」の通説を覆す! 第3回
大海人には豪族たちとの人脈があり水面下で徴兵工作を行った
天智9年(670)には我が国初の本格的な戸籍、庚午年籍が完成していた。これを使うならば、民衆から大量の兵士を容易に徴発することが可能となる。大友による徴兵は当時の首都、近江大津宮のあった近江国を中心に大倭国、山背国、津国、河内国といった国を単位に、畿内一円におよんでいたようである。各国の行政をあずかるために派遣されていた官僚(国司)がその作業を推進したと見られる。これらの兵力によって天武を殲滅し、晴れて正式な即位の儀式を挙げようというのが大友側の目論見であった。
これに較べるならば、天武の戦争準備は極めて不利なものがあった。出家して辺鄙な吉野宮にあり、従者も少なければ兵士や武器もないに等しい。それでも彼には「大皇弟」と呼ばれていた時代に培った有力な豪族たちとの縁故や人脈があった。天武は、大友の命により各国で徴兵にあたっていた国司たちにひそかに連絡を取り、自分に味方するように働きかけたようである。
もちろん、このような工作は『日本書紀』に明記されているわけではない。だが、たとえば、尾張国司であった小子部鉏鉤が2万の大軍を率いて天武に寝返ったことなど、水面下で周到な政治工作が行なわれたことを想定せざるをえない。天武には美濃国安八磨評(当時はまだ郡制ではなかった)に領地(湯沐邑)があり、これを現地にあって管理していた多品治が、同祖同族の関係(神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔)にあった小子部氏の鉏鉤に働きかけたことは容易に推察されるところである。
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