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大坂冬の陣の前哨戦、「博労淵の戦い」の舞台を訪ねる

季節と時節でつづる戦国おりおり第334回

大坂冬の陣・博労淵の戦いを歩く①

 今回のツアーは、大阪の心斎橋から西へ長堀通りをテクテク進んだこちらからスタートです。

 大阪市西区役所。大坂冬の陣の前哨戦、博労淵(ばくろうぶち)の戦いで、舞台となった豊臣方の博労淵砦があったのが、このあたりとされています。
 慶長19年(1614)11月29日、この地の砦に幕府方の蜂須賀至鎮(はちすか・よししげ)隊ほか5000以上が攻め掛かり、砦の守備兵はあっというまに逃げ散ってしまったという場所です。
 砦の守備隊長は薄田兼相(すすきだ・かねすけ)。武勇の誉れ高い男でしたが、このときちょうど大坂城内に赴いて不在であったために留守兵たちも抵抗の術が無かったとされ、兼相は城中の者たちから「見てくれは派手だが正月の飾り物にしかならない」橙武者だ、と嘲りを受けた、というのが有名なエピソードとなっています。

 ですが、この話は本当なのでしょうか?
 この西区役所から、北西へ500mほど移動しましょう。

 こんなところに出て来ました。何の変哲もないマンションの敷地ですが、ここも博労淵砦跡の推定地となっています。西側には木津川が流れる場所で、西区役所もこのマンションも砦の構内の一部だったとすれば砦は少なくとも400m四方近くあった計算となります。面積にすれば0.16㎢、16㏊、48000坪あまり。これは結構な広さです。東京ドームの4倍近い、といえば想像がつきやすいでしょうか。

(次稿に続く)

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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