日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 日本陸軍の創始者・大村益次郎を襲撃した男
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~【神代直人】
窓から逃げた!
団が襖を倒して座敷に踏み入れると、その拍子で灯火が消えました。団は暗闇の中で、大村らしき者に斬り付けます。
大村「おのれ曲者!」
眉間を切っ先で斬り付けられた大村が叫びつつ、愛刀で迎え討ちますが、鞘のまま受け止めて鞘走りしたため、左の指さきと右の股関節に深手を受けてしまいます。
安達「賊だ! 賊だ!」
窓際にいた安達が叫び、3人のうちの誰かが鴨川に面した窓から河原に飛び降りました。これを大村だと知った団がその後を追いました。
鴨川で待ち構えていたのは……
その頃、鴨川の河原では神代たち第3組が作戦通りに待ち構えていました。
座敷から飛び降りてきた者を、追い掛けてきた団が後頭部に斬り付けたところへ神代が迫りました。神代は左肩から激しく斬り付け、暗闇の鴨川で、ついに暗殺に成功したのです。
神代は団に聞きました。
神代「大村に相違ないか!?」
同じ長州藩出身であったものの、活躍の場が違った大村の顔を神代は知りませんでした。しかし、団は大村を見たことがあったようです。
団「相違ない!」
それを聞いた神代は、悲願を達成して思わずこう叫びました。
神代「しめた、しめた!」
そして、神代は団と共に鴨川を渡って、その場を逃れました。その後、続いて座敷から飛び出した静間も、第3組の五十嵐に斬られ、小宴をしていた大村たち3人のうち、2人は鴨川の河原で無残に斬殺されてしまいました。
まさかの人違い!
こうして大村益次郎襲撃事件は、神代たちの計画通りに遂行されたようにみえました。しかし、実はこの時、大村はまだ生きていました。
重傷を負ったものの、暗闇の中の混乱で座敷から密かに抜け出した大村は、階段を降りて1階の浴室に逃げ込み、浴槽の中に身を潜ませていたのです。河原の方からは、
「大村先生を討ち取った!」
という声が聞こえて戦闘は終息し、神代と団に続いて刺客たちは現場から逃走しました。
難が去ったことを知った大村は、浴槽から出てきて、旅館の手配で呼ばれた医者の治療を受けています。
座ったまま斬り付けられた大村は頭や膝など6ヶ所の大きな傷を負っていました。
この時、大村はこれだけの大事があったにもかかわらず、平然たる態度で、
「皆さん、御心配くださってありがとうございます。私もしばらく栄螺(さざえ)の真似をしていました」
と冗談を言ったといいます。
神代たち刺客8人は、襲撃の正当性を主張するための「斬奸状(ざんかんじょう)」を所持していました。そこには次のような一文が記されていました。
「(大村益次郎は)専(もっぱ)ら洋風を模擬し、神州(日本)の國體(国体)を汚し、朝憲(朝廷が定めた掟)を蔑(ないがし)ろにし、蠻夷(野蛮人)の俗を醸し成す」
つまり「洋風を真似て日本を汚し、朝廷を蔑ろにして、野蛮人となっている」ということであり、大村の急進的な洋式軍制改革が、襲撃事件の原因だったことが分かります。また、後に神代は、
「開港の説を主張した大村氏を速やかに殺害しなければ、王政御一新(ごいっしん)の目的は果たせない」
と話すと共に、「討ち取った首は、大村氏の首でないと聞いて仰天(ぎょうてん)した」とも述べています。
大村は「火吹き達磨」というあだ名と肖像画を見て分かる通り、一目見たら忘れられないかなり独特な容貌をしています。同じ長州藩ということもあったので、もう少しリサーチをしておけば、襲撃時に討ち漏らすことはなかったのではないかと思います。