【51年前の今日、大阪万博開幕】1970年3月15日「世界の国からコニャニャチワ」《最終回:もう五輪と万博では取り戻せない日本》 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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【51年前の今日、大阪万博開幕】1970年3月15日「世界の国からコニャニャチワ」《最終回:もう五輪と万博では取り戻せない日本》

平民ジャパン「今日は何の日」:16ニャンめ


  1970315日、日本万国博覧会(大阪万博)開催。「人類の進歩と調和」をテーマに官僚が舞台を作り、文化人が企画演出し、国民が踊った記憶が「太陽の塔」とともに残る。政府主導のお祭りで日本が沸いたその一方で、ポップカルチャーが大きく変化し、サブカルの黄金時代が始まっていた。「今日はニャンの日」連載の最終回は、万博です!


◼︎原爆から原発へ——人類の進歩と調和への夢と東西冷戦

 1970年、世界は東西冷戦、アメリカはベトナム戦争、中国は文化大革命の真っただ中にあった。日本は60年代の政治対立の季節から70年代の経済優先の時代へと移り変わりつつあった。東大宇宙研が日本初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功し、ソニーが日本企業として初めてニューヨーク証券取引所に上場した。その一方で、よど号ハイジャック事件三島由紀夫自決事件が起きた。
 そして私は、猫になるずっと前、この頃はまだ、クラスで取っ組み合いのケンカもする小学生の悪ガキだった。

 

開催期間中の会場風景。中央に太陽の塔を望む。1970年4月撮影(写真:takato marui CC BY-SA 2.0)

 

 はるか51年前、日本が右肩上がりの成長を遂げ、勝ち続けていた時代の中で、史上最大の国家イベント「日本万国博覧会(大阪万博)」が開催された。

 万博の象徴「太陽の塔」だけは解体されず、50年近く放置されていた。2018年になってやっと修復され、広大な有料公園にポツンと立つ。原爆ドームがそうなっていったように、リアルな歴史の現場と時代の記憶は抽象的なモニュメントとして国民の記憶に刻まれる。半世紀が経ち、負けがこんで久しい日本にいま残されたレガシーが「1970年イコール万博」の記憶だけなら寂しい限りだ。

 なぜなら、猫島君は同級生がこぞって万博に行くのを黙って見ていた「行けなかった側の人間」だったからだ(残念)…

 

◼︎「ビューティフルをモーレツ」に求めるカラフルな70年代

 しかし、1970年前後は世界のカウンターカルチャー日本のポップカルチャーに大きな変化が起き、60年代に種がまかれたサブカルの花が一斉に咲き開く、カラフルな70年代の幕開けでもあったことを、セットで思い出しておきたい。

 敗戦から25年、日本は国家主導の開発経済によって高度成長(1954~1973)のピークにあった。すでに1968年、GNPは世界第2位となって東洋の奇跡と囃されたが、一人当たりに換算すれば西ドイツの半分で、まだ決して豊かとは言えなかった。いや、ハッキリ言ってまだ貧しかった。

 東京オリンピック開催前年の1963年、通産省が発案した万博は、政財官学が一体化することで巨大な国家プロジェクトとなった。錚々たる学者、作家、建築家、芸術家と知識人を幅広く巻き込みながら企画され、アジア・アフリカの多くの発展途上国を含む史上最多、世界77か国を参加させることに成功した。国鉄のキャンペーン「ディスカバージャパン~美しい日本の私~」が同時展開され、人口の半分をゆうに超える、のべ6421万人が大阪を訪れた。2010年の上海万博が7300万人を集めるまで、この世界的記録は40年間破られなかった。

 1970年は日米安保条約改定の年にあたり、かつて国を二分した「安保闘争」が再燃するはずだった。しかし、大阪万博はオーガナイザーたちの目論見をはるかに超えて熱狂するお祭りと化し、あたかも現代のお伊勢参りとなった。敗戦リセットから四半世紀、日本人はそれまでの苦難の代償と信仰の対象を求めていた。朝の開門時には、おびただしい数の来場者が一斉にダッシュするほど殺気立ったが、平均滞在時間6時間半のうち4時間半は待ち時間だった。展示をろくに見ることもなく、公式ガイドブックにスタンプを押し、コンパニオンのサインをもらって次から次へと会場を回るそれは、苦行を厭わない巡礼者の姿だった。そこには、未来を覗きたいという願望以上に、いまを生きる証を求める動機があった。「ビューティフルをモーレツ」に求める日本人の悲しい性(さが)のようなものが胚胎していた。

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猫島 カツヲ

ねこじま かつを

ストリート系社会評論家。ハーバード大学大学院卒業。

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