「承久の乱」を経て、東国地域政権から全国政権へとシフトした鎌倉幕府
戦う天皇の秘史「承久の乱」と「南北朝の戦い」での 2人の天皇の勇壮無比の活躍は真実か? 第3回
「承久の乱」の後鳥羽上皇と、「南北朝の戦い」の後村上天皇。戦う2人の天皇の、勇壮無比の活躍は果して真実なのか? 戦う天皇の秘史に迫る連載、まずは「承久の乱」の後醍醐天皇にスポットを当てる。
朝廷軍、総崩れとなり京都に退却
すばやい幕府側の対応に比べ、朝廷方は無策すぎた。朝廷の権威、院宣・宣旨の効力を過大視したのであろう。すでに5月末には北陸道軍が朝廷軍と交戦していたが、そこに幕府の大軍が西上するという報告が入った。予想外に早い事態の進展に驚いた朝廷側が、迎撃のために大内惟信、藤原秀康、山田重忠ら率いる1万7000余騎を美濃・尾張の国境木曽川の沿岸に派遣したのは6月3日のこと。しかし、5〜6日には幕府の東海道軍と東山道軍の攻撃をうけ、朝廷軍は総崩れとなって京都に退却せざるを得なかったのである。
この敗報が伝わると、上皇は近臣を集めて話しあい、比叡山の僧兵も味方しないなかで、残る全兵力を宇治川と勢多に派遣し京都を防衛することになった。6月の長雨で氾濫する宇治川の板橋は、朝廷軍によってすべて引き落とされた。13日、幕府軍は攻撃を開始したが、容易に打ち破ることはできなかった。しかし、翌日、わずかな晴れ間をついて強引に渡河を決行、多くの軍兵が濁流に呑まれたものの、ついに宇治川の防衛戦を突破したのである。こうして幕府の大軍は、早くも15日には入京した。
敗れた藤原秀康、山田重忠らは上皇の御所「四辻殿」にこもって最後の一戦を試みようとしたが、上皇は門を閉じて彼らを入れようともしなかった。やむなく東寺にたてこもったものの、幕府軍に攻め立てられ、その多くが無残な最後をとげたのは哀れであった。
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