「逃げの小五郎」はなぜ逃げたのか?「和して同ぜず」を貫いた木戸孝允
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第36回 ~木戸孝允(桂小五郎)~
○社会生活を送る上でバランスが取れた性格の持ち主!
知性、行動力、人脈は、社会生活を送る上で重要な3要素とされ、3つ全て持っている人を「三徳(さんとく)」と呼ぶ。バランスが取れていて社会生活を送りやすい。一方で、バランスが取れ過ぎているため、失敗を恐れる傾向にある。これまで、大勢の歴史上の人物を鑑定してきたが、「三徳」を持っている人物は意外に少ない。戦国武将だと黒田官兵衛、幕末だと西郷隆盛や井伊直弼がいる。
安定した環境では十分に力を発揮できるが、変動や変化が大の苦手。失敗するくらいなら逃げてしまおう!という精神が「逃げの小五郎」に繋がったとも言える。
○知性40%(偏印2つ)
知性は、何かを学ぶことが好きで、物事を論理的に捉えるのが得意。中でも「偏印」は、知的好奇心が旺盛で、アイディアや発想力がある。個性的で海外好き、放浪好きでもある。
若い頃から、長州藩主・毛利敬親による親試(即興の漢詩と孟子の解説)で2度褒賞を受け、長州藩の若き俊英として注目されていた。その後藩校・明倫館で、山鹿流の兵学教授だった吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評価される。知性40%が示すように、相当頭がよかったのだろう。
また、「偏印」は飽きっぽく放浪好きな星でもある。禁門の変の後、孝允は行方をくらまし兵庫県出石にて商人に成りすました。一説によると、このまま商人になることも考えたという。当時孝允の恋人で後に妻となる幾松が、1か月にわたって説得を重ね、ようやく長州藩に戻ったという。
○人脈40%(正財2つ)
人脈は、さりげない気配りができて誰とでも仲良くなれる星。中でも、「正財(せいざい)」は重要な人物を見抜いて強い信頼関係を築ける、真面目な星。結婚運の星でもある。「正財」を2つ持っており、これらの性格が強まっていたと予想される。
写真を見てもわかるように、孝允は現代の俳優に勝るとも劣らない相当なイケメン。女性にとてもモテたそうだ。その理由は、顔だけでなく、女性に対し細やかな気遣いができたのだろう。
そんな孝允を射止めたのは、芸者の幾松(後に松子)だ。相当なお金を払って幾松を身請けしたそうだが、気丈で機転が利く女性としてよく知られる。各地を逃げ回っていた孝允の潜伏を手助けしたのは幾松で、潜伏場所に食事を届ける等している。また、新撰組の近藤勇らが屋敷に踏み込み探索した際、幾松は孝允を長持に隠した。新撰組組長・近藤勇が長持に手を掛けようとした時、「これほど屋敷を改めて私に恥をかかせた上、この中にもいないとなればこの場で切腹してくれますか」と言い放ち、近藤にその場を立ち去らせたという話も残る。
幾松がいなければ、明治政府で活躍する孝允はいなかったかもしれない。そう考えると、やはり相当強い結婚運を持っていたのだろう。生涯、妻は幾松一人だった。
○行動力20%(正官)
行動力は、頭で考えるよりも行動で結果を出そうとする星。その中でも「正官(せいかん)」は、プライドが高く真面目な星。仕事もよくできる。
上の「正財」を2つ持っていることと相まって、孝允は相当真面目な性格だったのだろう。明治政府を樹立し、参議の役職に就いてからは、次々と仕事をこなしている。つまり、真面目すぎるがゆえ動乱には弱いが、安定した環境では十分に力を発揮できるタイプなのだろう。孝允は、廃藩置県、版籍奉還等、明治維新の大事業に関わっている。さぞかし責任感も強かったのだろう。心労を重ね、晩年には心の病を患っていたとも言われる。
○自立心なし
鑑定の結果、孝允は自立心を持っていないことがわかった。
筆者としては、少し納得できる部分もある。禁門の変において、長州藩は薩摩藩と戦い、200人以上が亡くなっている。長州藩士は薩摩を憎み、草履の下に「薩賊」(薩摩は悪者)と書いて日々踏みつける生活を送っていた。そんな中、坂本龍馬から薩長同盟が持ちかけられたのだから、当然長州藩士は大反対だ。孝允も心の奥底では薩摩に対し相いれない思いがあったのだろうが、薩摩の西郷隆盛と会談、長州藩士を説得して最終的に薩長同盟を締結している。孝允がこのような柔軟性を持っていたのは、ある意味、意固地な自立心がなかったからかもしれない。