関ヶ原合戦の構図と「太閤検地」
外川淳の「城の搦め手」第60回
今回は、石田三成が差配した「太閤検地」について考察してみたい。
三成が検地を実行したエリアの大名は、越後の上杉氏、常陸の佐竹氏、薩摩の島津氏をはじめ、親三成派が多い。安芸の毛利氏による検地も三成が指導。三成は検地を通じ、特定の大名との関係を深めたとも推測できる。
つまり、関ヶ原合戦で西軍として参戦した大名は、三成の検地を受けていたといえるのだ。
江戸時代になると、大名は格式を高めるため、石高を過大に申告することもあった。だが、石高は、合戦に参加するときの動員人数や、築城工事などへの資金提供に対する基準値であり、少ないほうがよい。三成は、島津領、毛利領、島津領の検地をするさい、石高の過小申告をするように指導することにより、彼らと密接な関係を築いたと思われる。
そのような“不正行為”がなくとも、三成は、検地によって彼らの領地に関するデータを掌握しており、一蓮托生の状態にあったともいえる。関ヶ原合戦は、「三成の検地を受けた西軍」と「浅野長政の検地を受けた東軍との戦い」という仮説が成り立つのも、興味深い。