佐賀藩が築造した伊王島の台場群、その歴史的意味を考える
外川淳の「城の搦め手」第61回
先日、長崎伊王島の台場群を探査した。台場を探査するさい、当時の図面があれば、現状との比較が容易になり、遺構を見落とす危険も低くなる。最も有名な品川台場については、多数の図面が残されているのに対し、全国の台場については、まちまちであり、公刊されず、撮影さえされていない図面も数多い。台場の図面集の公刊については、自身の課題であるとともに、多数の図面が埋もれていることは、残念ながら自治体の無関心や怠慢によるとことが大きい。
伊王島には、佐賀藩が4カ所の台場を築造。その現状を紹介しながら、その歴史的意味合いを考えてみたい。
1真鼻台場
伊王島灯台よりも島の突端に位置。伊王島町(現在は長崎市に吸収合併)設置の史跡標柱が立つ。灯台の建設にともない、石垣の石材が転用されるものの、一部の石垣が残されており、図面との比較により、往時の形状が推測できる状態にある。
残りの3つ台場の現状と、伊王島台場群の総評については、次回後編で紹介したい。