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古代日本のエリート・聖徳太子は誰に殺されたのか?

聖徳太子は誰に殺された?①

平等寺 聖徳太子石像

■飛鳥の聖者・聖徳太子の突然の死

 父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女で、両親とも皇族である。祖母はともに蘇我稲目(いなめ)の娘であり、つまり太子は天皇家と蘇我氏の血を受けていたことになる。しかも太子は当時の歴代天皇のすべてに血のつながりのあるエリート中のエリート。皇位にもっとも近い、光り輝く存在であった。 推古30年(623)、前ぶれのない聖者の死は、日本国中に大きな動揺を与えた。 老人はかわいい子を失ったように気を落とし、幼子はまるで母を失ったかのように泣き叫び、その声はいたるところに満ちあふれたという。
 この、人々が胸をかきむしるほどにその死をいたんだ主とは、もちろん聖徳太子のことである。 『上宮聖徳法王帝説』によれば、聖徳太子は574年、飛鳥橘宮で生まれたとされている。名は厩戸皇子、聖徳太子とは逝去したのちにつけられた通称である。

 そして太子は、叔母である推古女帝のもとで摂政として政治の実権を握り、数々の斬新な政策を打ち出して、古代日本の近代化に大きく貢献したのである。
 だが、その輝かしい前半生とは裏腹に、晩年の聖徳太子には暗い影がつきまとっていた。推古13年(605)、なぜか聖徳太子は、当時宮廷があった飛鳥の都から遠く離れた斑鳩(いかるが)の里に宮を造って移り住む。この斑鳩宮(現在の法隆寺の東隣)での隠棲は、聖徳太子の政治的挫折をあたかも暗示するかのようである。
 そして、聖徳太子とその母と妻(膳夫人)の三人が、時を同じくするかのように急死したことは、聖徳太子の失意と絶望の結果ととれなくもない。

 さらに聖徳太子の死後、皇極2年(643)、聖徳太子の遺族で皇位継承者の一人だった山背大兄王(やましろのおおえのみこ)の一族が、蘇我入鹿(いるか)の攻撃を受けて原因滅亡の道を選んだことも、聖徳太子の悲劇性をよりいっそう際立たせている。
 このように聖徳太子を語る場合、聖徳太子自身のもつ悲劇性とともに、太子やその周辺に数多くの謎が存在していることも忘れることはできない。
 なぜ聖徳太子は朝廷から孤立したのか。なぜ聖徳太子の子孫は一人も残らなかったのか。どれもこれもわからぬことばかりなのだ。

 
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関 裕二

せき ゆうじ

 



1959年生まれ。歴史作家。仏教美術に魅了され、奈良に通いつめたことをきっかけに、日本古代史を研究。以後古代をテーマに意欲的な執筆活動を続けている。著書に『古代史謎解き紀行』シリーズ(新潮文庫)、『なぜ日本と朝鮮半島は仲が悪いのか』(PHP研究所)、『東大寺の暗号』(講談社+α文庫)、『新史論/書き替えられた古代史』 シリーズ(小学館新書)、 『天皇諡号が語る 古代史の真相』(祥伝社新書)、『台与の正体: 邪馬台国・卑弥呼の後継女王』『アメノヒボコ、謎の真相』(いずれも、河出書房新社)、異端の古代史シリーズ『古代神道と神社 天皇家の謎』『卑弥呼 封印された女王の鏡』『聖徳太子は誰に殺された』『捏造された神話 藤原氏の陰謀』『もうひとつの日本史 闇の修験道』『持統天皇 血塗られた皇祖神』『蘇我氏の正義 真説・大化の改新』(いずれも小社刊)など多数。新刊『神社が語る関東古代氏族』(祥伝社新書)



 


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  • 2015.07.18