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聖徳太子の妻について『日本書紀』が書いた意味深な記述

聖徳太子は誰に殺された?③

「海(つ)柘榴(ばい)市(ち)(桜井市)」隋使が大和に到着したとき、船を下りたという場所

■聖徳太子の妻・菟道皇女に秘められた過去

『日本書紀』が聖徳太子を暗に誹謗していると思われるような記述は、小野妹子のことだけではない。 

「敏達紀」のなかに聖徳太子に関係する奇妙な記事があるが、これがどうも聖徳太子の顔に泥を塗る目的で記されたとしか考えられないのだ。 聖徳太子の伯父にあたる敏達天皇の最初の皇后は広姫といい、敏達とのあいだに一男二女をもうけたが、このなかに菟道磯津目という皇女がいた。ところが皇后・広姫 が敏達4年(575)に亡くなったため、翌5年に豊御食炊屋姫尊(のちの推古天皇)が皇后となり、敏達とのあいだに二男五女をもうけたが、このなかに菟道貝蛸という皇女がいた。 

皇女をめぐる系図
 

 さて、前出の菟道磯津員皇女と後出の菟道貝蛸皇女は名前が似ているが、『日本書紀』 は後者の菟道貝蛸皇女の別名が、じつは菟道磯津員皇女だったとしている。つまり、両者は異母姉妹でありながら同名であったかもしれない、といっているのである。

 問題はここからだ。

 敏達7年(578)、「菟道皇女」なる人物が伊勢の斎宮となるのだが、ここで事件 が起きる。「菟道皇女」が池辺皇子なる人物に犯されてしまったのだ。『日本書紀』の記事にしたがえば、この事件はやがて朝廷中に知れわたるところとなり、「菟道皇女」は 伊勢の斎宮の任を解かれてしまった。 この一見ありふれた、単なる宮中スキャンダルにすぎない事件も、そのなかにこめられた意味は意外と深い。なぜなら、先述の菟道貝蛸皇女、別名・菟道磯津貝皇女という人物は、じつはのちの聖徳太子の妻であり、伊勢にむかった「菟道皇女」なる人物と同一である可能性が出てきたからである(前頁図参照)。 

『日本書紀』は、この「菟道皇女」がどちらの人物をさしているのか、はっきりと示していない。そこで通説では「菟道皇女」は太子の妻(菟道貝蛸皇女)ではなく、もうひとりの「道磯津貝皇女」をあてている。

 それは、伊勢斎宮が、生涯独身を貫くことが多かったこと、そしてもうひとつは、太子の妻が他の男に犯されているはずがない、という思い込みがあるからだろう。 だが、ここでわれわれが問題としなければならないのは、「菟道皇女」なる人物がどちらの「菟道磯津貝皇女」であったのかということではない。なぜ「日本書紀』 は、わざとどちらにもとれるような曖昧な表現方法をとったのか、ということだ。

 もし『日本書紀』が太子を本当に朝廷の聖者として崇めていたのなら、なぜまぎらわしい記事を放置していたのか、その真意がつかめなくなってくるのである。 

(次回に続く)

〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より

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関 裕二

せき ゆうじ

 



1959年生まれ。歴史作家。仏教美術に魅了され、奈良に通いつめたことをきっかけに、日本古代史を研究。以後古代をテーマに意欲的な執筆活動を続けている。著書に『古代史謎解き紀行』シリーズ(新潮文庫)、『なぜ日本と朝鮮半島は仲が悪いのか』(PHP研究所)、『東大寺の暗号』(講談社+α文庫)、『新史論/書き替えられた古代史』 シリーズ(小学館新書)、 『天皇諡号が語る 古代史の真相』(祥伝社新書)、『台与の正体: 邪馬台国・卑弥呼の後継女王』『アメノヒボコ、謎の真相』(いずれも、河出書房新社)、異端の古代史シリーズ『古代神道と神社 天皇家の謎』『卑弥呼 封印された女王の鏡』『聖徳太子は誰に殺された』『捏造された神話 藤原氏の陰謀』『もうひとつの日本史 闇の修験道』『持統天皇 血塗られた皇祖神』『蘇我氏の正義 真説・大化の改新』(いずれも小社刊)など多数。新刊『神社が語る関東古代氏族』(祥伝社新書)



 


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  • 2015.07.18