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聖徳太子「御落胤の末商」がひとりも登場しなかった不思議

聖徳太子は誰に殺された?④

崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開のため四天王像を彫り、それを安置するため建立された四天王寺

 

■聖徳太子の子孫が一人もいない不思議

 聖徳太子をめぐる知られざる謎は、もうひとつある。それは、後世、聖徳太子の子孫を名乗る者が一人もいなかったという事実である。

 これは後でくわしく述べるが、『日本書紀』には、聖徳太子の死後、聖徳太子の子・ 山背大兄王をはじめとする聖徳太子の一族(上宮王家)が、皇極2年(643)、 斑鳩宮で蘇我入鹿のさし向けた軍団に追われ、全滅の道を選んだと記されている。したがって、聖徳太子の子孫を名乗る者がそれ以降出現しなかったことについて、これまで何の疑いももたれていなかった。

 このあたりの事情について、坂本太郎氏は前出の『聖徳太子』のなかで、次のよう に語っている。

「上宮王家の滅亡が単なる舞文でなかったことは、後世太子の子孫と名のる人が、全く史上に現われないことからも証せられる。一族が亡びたといっても、その後裔を称 する人は、いつかは現われるのが常である。太子に限ってその子孫と称する人はいない。太子及び上宮王家は、彗星の如く現われて、世にも美しい光茫を放ち、忽然として消え去ったのである。およそ、これほどいさぎよい一族の興亡が、ほかにあったで あろうか」

 以上のような坂本氏の太子一族に対する称賛は、二つの重大な過ちを犯している。

 まず第一に、バラバラに暮らしていたはずの上宮王家がわざわざ斑鳩宮一カ所に集まって集団自殺したとする『日本書紀』の記述は、まったくの創作ではないかという疑いがあること。

 そして第二に、「聖徳太子にかぎって子孫と称する人はいない」のが上宮王家滅亡のなによりの証拠とする説は、一見正論にみえるかもしれない。だが、これこそがまさしく『日本書紀』の落とし穴なのではあるまいか。聖徳太子の末裔が現れなかったのは、 聖徳太子の一族が実際に滅亡した証拠ではなく、もっと別の見方が可能だからである。

 中世、貴族の没落とともに台頭した新興勢力は、成り上がりゆえにその出自を飾ろうとし、権威づけの努力を惜しまなかった。そんな風潮のなか、源氏をはじめとする天皇家につづく多くの名門家系の名は、武士たちに大いに利用されていた。

 ところが、太子一族の末流と称する者が、ただのひとりたりとも現れなかった。怪しげな「御落胤の末商」がひとりも登場しなかったことこそ不審きわまりない。この事実は、聖徳太子の血統を利用する価値がまったくなく、むしろマイナスでさえあったことを暗示しているのである。

(次回に続く)

〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より

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関 裕二

せき ゆうじ

 



1959年生まれ。歴史作家。仏教美術に魅了され、奈良に通いつめたことをきっかけに、日本古代史を研究。以後古代をテーマに意欲的な執筆活動を続けている。著書に『古代史謎解き紀行』シリーズ(新潮文庫)、『なぜ日本と朝鮮半島は仲が悪いのか』(PHP研究所)、『東大寺の暗号』(講談社+α文庫)、『新史論/書き替えられた古代史』 シリーズ(小学館新書)、 『天皇諡号が語る 古代史の真相』(祥伝社新書)、『台与の正体: 邪馬台国・卑弥呼の後継女王』『アメノヒボコ、謎の真相』(いずれも、河出書房新社)、異端の古代史シリーズ『古代神道と神社 天皇家の謎』『卑弥呼 封印された女王の鏡』『聖徳太子は誰に殺された』『捏造された神話 藤原氏の陰謀』『もうひとつの日本史 闇の修験道』『持統天皇 血塗られた皇祖神』『蘇我氏の正義 真説・大化の改新』(いずれも小社刊)など多数。新刊『神社が語る関東古代氏族』(祥伝社新書)



 


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  • 2015.07.18