山本一郎氏が絶賛する『みんなちがって、みんなダメ』とは
『君たちはどう生きるか』を読むとバカになる理由
■「気づき」は救済とは関係ない
では、自分がバカだと気づくにはどうしたらいいのか。それには「あなたならできる」とか「あなたはミミズではなくヘビだ」といった囁ささやきに耳をかたむけないで、バカな自分をバカなままに見つめることです。
その方法として、たとえばいま流行りのテーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想などは、それなりに効果はあるとは思います。これは自分の内面を評価・判断せずにただ観察しつづけるというもので、口当たりのいい信念を強化したりはしません。所詮人間が作った初歩的なものではありますが、その辺から始めるのは悪いことではないでしょう。イスラームでもスーフィズムにはそれに近いものがあります。
ただし、瞑想などでよくいわれる「気づき」みたいなものは、イスラーム的にはどうでもいいことです。「気づき」とか「癒いやし」とか「救い」とか呼ばれているものはイスラーム的な救済とはまったくちがいます。その手の「救い」に当たるものは、日本のような経済的に豊かな社会に暮らしていれば、すでに十分与えられているんです。ただ、バカだから気づいていないだけです。
たとえば、水道の栓をひねれば安全な水が出る、夏にコンビニに行けばただで涼しい思いができる、いきなり路上で爆弾が炸さく裂れつすることもないし、武装集団に襲撃されてすべてを奪われるということもめったにありません。
そういう世界に暮らしていて、これでそもそも幸せじゃないとか言っているのは、ただ鈍いだけです。そのことに気づいたからといって、たいしたことではありません。それを「救われた」「幸せになった」「悟った」などと解釈しているんです。でも、それはイスラーム的な救済とはなんの関係もありません。
それまで、そんなことに気づけずに不幸でいたとしたら、それはバカだったからです。先ほども言いましたが、不幸な人間というのは基本的にバカなんです。「気づき」で救えるものなど何もありません。気づきがあったからといって、アフガニスタンやシリアに行ってみれば、すぐにまた不幸になります。「気づき」にまったく意味がないとは言いませんが、それだけではただの気休めに過ぎません。承認欲求と同じく、それが満たされたあとに、何をするかがだいじなんです。
〈『みんなちがって、みんなダメ』より構成〉
- 1
- 2