大乱のはじまりとは?凋落する将軍家の権威
「応仁の乱」京の都を焼き尽くした天下の大乱の11年①
■「嘉吉の乱」後、8代・義政は各守護大名の家督相続争いに関与
嘉吉元年(1441)6月24日、室町幕府の足利6代将軍・義教(3代将軍・義満の三男)は有力守護大名の赤松満祐によって謀殺された(「嘉吉の乱」)。義教が有力守護大名を抑えこもうと当主の交代などの介入をおこなったことによって、彼ら大名衆の反発と警戒心を招いてしまったのだ。武家の頂点に立つ将軍があっさり殺されてしまったことは、幕府の権威を失墜させた。7代・義勝の早世後、8代・義政(義教の三男)は当初幕威の回復を志して幕府の人材を充実させ、各守護大名家の家督相続争いにも関与したが、周囲や有力守護大名の介入によって思うに任せない状況が続いていた。
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