義政の実子・義尚の誕生で、パワーバランスを破壊する日野富子
「応仁の乱」京の都を焼き尽くした天下の大乱の11年②
■政所執事・伊勢貞親の失政・失脚で細川・山名両家の力が浮上
畠山氏、斯波氏など、各地方の有力守護大名たちの家督相続を巡る対立。
それらの対立の多くは、将軍・義政、そしてそれ以上にその側近で政所執事の伊勢貞親に原因がある。将軍権力の上昇によって自身の地位を磐石にしたい貞親らは、守護大名家の内紛に積極的に干渉し「勘当に科なく、赦免に忠なし」(『応仁記』、以下『応』)と批判されるほど一貫性の無い対応に終始した。ある意味それは対立を煽って双方の体力を消耗させ、有力な大名を排除するための高等政略だったとも言えるのだが、義政とその側近たちが「公方(将軍)の威力、草に風を加うるが如きなり」(『蔭涼軒日録』)などと悦に入っているのとは逆に、結果的にかえって対立を激しくし長期化させていく。
そのうえ、将軍家自体にも問題が発生していた。子の無い義政は弟の義視を後継者としていたのだが、寛正6年(1465)義政の実子・義尚が誕生し、その将軍職襲位を願う日野富子(義尚生母、義政正室)が「如何にもしてこの若君を世に立てまいらせん」(『応仁記』、以下『応』)と願い、義視─義尚の関係が新たな台風の目となりつつあったのである。
本来、広い直轄領を持たない室町幕府の将軍は、有力守護大名たちの〝パワーバランス〟の上でその権威を発揮するものだった。みずからそのバランスに手を出した義政が招いた混乱は、将軍後継を争う義視派と義尚派の対立によっていよいよ収拾不能の状況へと発展拡大していく。
文正元年(1466)、義視反逆の虚報を流したとして伊勢貞親(義尚の乳母の夫でもあった)らが近江へ逃亡した。だがこれで事が済むはずもない。貞親による「有司専制」(特定派閥による専制政治)とも呼ぶべきこの体制を忌避する有力大名たちの代表である細川勝元・山名宗全の両者は、手を組んで義廉支持にまわっていたのだが、斯波義敏を支援していた貞親の失脚によって、共通の敵がいなくなったふたりはまたもや反目を始める。