大名行列の本質は「儀仗」ではなく「兵仗(軍用)」だった
「戦う大名行列」を解く。乃至政彦氏インタビュー②
■軍隊行進だった大名行列
上杉謙信の「車懸り」という陣形が、大名行列の起源だったという前回に続き、今回は大名行列そのものについてお話したいと思います。
私たちが時代劇などでよく目にする行列像は、服装を正した武士たちが駕籠に乗った殿様をお守りする儀礼的なものが多いため、身分確認の文化風俗と見る人が多いと思います。しかし武士の行列は、戦闘を前提とした戦列縦隊でもあったのです。
中世の武士は野戦(遭遇戦)を「野合の戦」と呼んでいました。武士の移動が横列が好まれた海外の戦列歩兵と異なり、縦列が基本でした。日本の国土は約7割が山地と丘隆地に占められていて、平野の比率はとても小さい。そのため軍隊は広野ではなく、既存の道を使って進むことになります。道先で敵勢を視認すれば、進退可能な広野に移動するため、先端同士の衝突にならざるを得ない。こうしたことから、日本では縦列の陣形が発達します。「儀仗(形式)」の行列とみられている大名行列は、「兵仗(軍用)」の行列だったのです。
さらに鉄砲が普及したのがこの直前。これを上手く使えば勝てるのではと模索した結果生まれたのが、縦長の陣形でした。面白いことに海外でも鉄砲が普及すると、急速に「兵科別編成」が流行ってくる。ジンギスカンやナポレオンも縦列の陣形を用いています。人は、武器や兵器ができてくると発想が似て来るのかもしれません。
上杉謙信の「車懸り」にはじまり、特に東国では縦列の陣形が急速に広まります。伊達政宗や蒲生氏郷など豊臣の時代になると、だんだん大名行列に近づいて行っているのがわかり、とても驚きました。その当時にも軍隊の行列以外に、祭礼用の行列(天皇行幸図、太閤秀吉公御葬式行列書、等)もありました。しかしそれと大名行列は似ていないのです。鉄砲も鑓も持っている大名行列はやはり、軍隊だったといえるでしょう。
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