江戸時代に山片蟠桃に推理された聖徳太子暗殺説
聖徳太子の死にまつわる謎⑪
■河内国・大聖勝軍寺の縁起絵巻に毒殺図があった?!
"飛鳥の聖者"聖徳太子は、何者かによって暗殺されていた—-一見、奇をてらったようにみえるこの聖徳太子暗殺説だが、じつはすでに江戸時代後期に登場している。
たとえば、江戸時代の国学者・山片蟠桃は「夢ノ代」のなかで、次のように語っている。
「サテマタ太子、始メハ仏道ニ因リテ馬子ニ親附シ、ツイニ太子トナルニ至ル。馬子ハ十分ニ志ヲ得テ、天下ノコトヲ掌握シテ、我意ヲ振ヒ、太子ハ摂政ノ名アルノミニテ、国政ニ預ルコトナク、唯仏法ヲ興隆スルコトリヲナス内ニ、思ヒノ外ニ推古長命ニシテ、禅位ノサタモナク、馬子ハ太子ノ英明ヲ憚カリテ、国政ヲ授クルコトヲネガハズ。太子モッイニ待カネ、又ハ馬子ノ騙暴ヲソロ~ト悪ミテ不和トナル」
これによると、聖徳太子ははじめ仏教信仰という共通点から蘇我馬子と親しくなり、 摂政となったが、実権を馬子に握られ、さらに推古天皇が思いのほか長命であったために、即位の可能性が低くなった。このため、聖徳太子は馬子を憎むようになったという。
問題は次の一節にある。
「ツイニ馬子、太子ヲ毒殺ス。[コノ時 太子ノ子二十五人一度ニ毒殺ニアフト云。]」
馬子が太子を毒殺した、しかも太子の子二五人も同時に殺されたというのだ。
なぜ山片蟠桃が太子暗殺説を主張したのかというと、河内国下ノ太子(現在の大阪府八尾市太子堂の大聖勝軍寺)に古い縁起絵巻が残されていて、このなかに、
「太子吐血、母・妻・子四人一時ニ毒死ノ図アリ。[四人吐血ノ図、河内下ノ大子ニアリト云。]僧徒等コノコトハ秘ストイヘドモ、四人同日に死タルコトハ、何クニテモ云コトナリ」
つまり、聖徳太子とその母、妻、子 四人が同時に毒殺されたという記述があり、その吐血のシーンを描いた絵巻が存在したというのである。
もちろん、このような伝承のすべてが正しいとはいえないが、同様に聖徳太子とその家族がほぼ同時に死んだことに固執する『上宮聖徳法王帝説』と照らし合わせると、聖徳太子の死の裏に何かが隠されているとしか思えないのである。
(次回に続く)
〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より