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上杉謙信、人材スカウトの意外な狙い?

季節と時節でつづる戦国おりおり第478回

 今から462年前の永禄2年5月1日(現在の暦で1559年6月6日)、越後の長尾景虎が京の内裏で正親町(おおぎまち)天皇に謁見する。

 長尾景虎、すなわち後の上杉謙信です。4月27日、坂本に3,500人を留め置いて1,500人ほどの人数で京に入った謙信はこの日宮中に参内し、正親町(おおぎまち)天皇への拝謁に臨みました。謙信はその場で天盃(天皇からの酒杯)を賜り、「伏して拝戴」したと『上杉家御年譜』にあります。儀式のあと従四位下少将に昇叙昇任した謙信は、それまでの足利将軍重視の姿勢から関白・近衛前久(当時は前嗣)重視の姿勢に転換します。

 謙信は、朝廷や幕府の衰退ぶりに幻滅して地方下向を熱望する前嗣をトップに据えた関東経略の構想を思いつき、これに熱中したのです。

 将軍からは前久の越後下向の噂が本当なら延期せよ、と申し入れされましたが、「(前久が)頼んで来れば拒否はできない」とはねつけ、「たとひこの儀を以て深く御勘気に及び候えども、更に分別に及ばず(例えこの件が将軍のお怒りにふれてもしかたがない)」(『上杉家文書』)と捨て台詞まで吐いて越後に引き揚げてしまったのでした。

 このあと前久も謙信のあとを追って越後に下向する事となります。

 ちなみにこの上洛で謙信はもうひとり、重要な人物を越後に連れて帰りました。坂本の日吉山王権現に参詣した謙信は、境内で美しい童子を見付けます。
実は、謙信は衆道(男色)好みだったようで、前述の近衛前久との交流でも近衛屋敷で将軍・足利義輝と三人で酒宴した際に
「華文字なる若衆数多(あまた)集め候て、大酒までにて、度々夜を明かし申し候。少弼は若文字数寄のよし」とある(「百万遍智恩寺岌州(きゅうしゅう)宛書状」『上杉家文書』)。

 華文字は華奢、若文字・若衆とは無論衆道(しゅどう)の対象となる若い男性の事で、少弼は弾正少弼である謙信本人。彼の男色好みの傍証となる内容です。ちなみにこのときの大酒で前久は翌日完全二日酔いとなり、動くことができませんでした。

 そんな衆道好きの英雄の眼鏡にかなう美しい童子。彼はその場で謙信にスカウトされました。これがのち上杉家の重臣として活躍する河田長親の若い日の姿です。

 公私ともに人材をスカウトして越後に連れ帰った謙信さんですが、前久を担いでの関東経略は失敗、前久はあきらめて京に帰ってしまいますが、真剣に慰留した様子はあまり見られません。

 どうも人材スカウトとしての謙信さんは、スカウト対象に対して熱しやすく冷めやすかったようですね。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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