大軍を都に集結させ反撃の準備を進める細川勝元
「応仁の乱」京の都を焼き尽くした天下の大乱の11年⑤
■越前・尾張・遠江の主導権を奪うべく動く斯波義敏
御霊合戦のあと、勝元派は復仇の機会をうかがい、宗全派の大内政弘の上洛を妨害するために安芸で食いとめようと動き、斯波義敏も越前・尾張・遠江の主導権を義廉から奪うべく兵を動かす。伊勢、播磨、丹後、丹波、美作、備前、若狭でも勝元派が動き、京でも戦支度を進める。5月16日には摂津の勝元派国人・池田某が馬乗12騎と1000人ほどの「野武士」を率いて京に入った。
これを警戒した宗全派もそれぞれの屋敷の防備を強化。一条通りより北では各屋敷が城郭のように武装し、通行にも困難を生じるほどになっていく。
宗全は17日一色義直屋敷で、20日斯波義廉屋敷でそれぞれ善後策を協議。これらが「細川に寄せるべきの由、支度」(勝元を攻める準備)「細川より山名へ寄せるべきの由」と世間を右往左往させる。人は「京都もってのほか物騒」、「世上の物騒、もってのほか」「一天大乱になるべきか」「天魔の所行」などと不安を募らせ、みな家財道具などを運び出し京からいずこかへ避難しようとし、それを狙う「悪党」が徘徊するという騒ぎとなる(『経覚私要鈔』『後法興院政家記』『後知足院房嗣記』『大乗院寺社雑事記』『応仁略記』)。
「悪党」というのは前述の「野武士」たちを含む、不法の輩だっただろう。なにしろ、勝元の下に参じた兵数は16万1500。宗全の側にも11万6000あまりが駆け付け、狭い上京でにらみ合っていたというから、軍紀など期待できない。京の治安は極度に悪化し、御所の姫君たちも避難するありさまとなった。
この緊張の中、機先を制したのは、かねてから周到に準備を進めていた勝元方であった。幕府御所の西門(四足門)の前に位置する一色義直屋敷は実相院門跡と、門跡が管理する幕府の御倉、正実坊に隣接している。これらを押さえれば幕府御所と宗全派との連絡を遮断、間を流れる小川も堀として利用でき防衛には有利である。さらに西側の堀川を隔てた宗全屋敷を、南の細川勝久屋敷と二方向から牽制することもできる。勝元方は26日、この基本構想に基づいて作戦を決行する。
(次回に続く)