「生きていく意味が分からない」と苦悩する人に伝えたいお話【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』の牧師が語る優しい夜話
なぜ人を傷つけてはいけないのかがわからない少年。自傷行為がやめられない少年。いつも流し台の狭い縁に“止まっている”おじさん。50年以上入院しているおじさん。「うるさいから」と薬を投与されて眠る青年。泥のようなコーヒー。監視される中で浴びるシャワー。葛藤する看護師。向き合ってくれた主治医。「あなたはありのままでいいんですよ」と語ってきた牧師がありのまま生きられない人たちと過ごした閉鎖病棟での2ヶ月を綴った著書『牧師、閉鎖病棟に入る。』(実業之日本社)が話題の著者で牧師の沼田和也氏が、「生きていく意味が分からない」と苦悩する人へ伝える「眠れない夜のためのお話」。
教会には、さまざまな苦しみを持つ人が相談の電話をかけてきたり、来訪したりする。前回、わたしは「死にたい」と思う人の内実について書いた。今回は「生きていく意味が分からない」と苦悩する人について書こうと思う。
「生きがいを感じない」「なんで生きているのか分からない」という人たちがいる。より根源的に「なんで自分が生まれてきたのか分からない」、いや、もっと否定的に「自分など生まれてこないほうがよかった」と嘆く人さえいる。こうした人々に共通することがある。それは、彼ら彼女らは皆、「今、ここに生きていることの意味」を渇望しているということである。
思えば、人生は綱渡りのようなものなのかもしれない。微妙なバランスをとりながら、とにかく前を向いて、一歩、また一歩と、綱を踏みしめて歩いていかなければならない。けれども、なかには前を向き続けることができず、ふと足元を見てしまう人もいる。足元を見たが最後、その人は綱から足を踏み外してしまい、地面へと真っ逆さまである。真っ逆さまに落ちた人が地面に激突しないためには、地面よりも上にセーフティネットを張っておく必要がある。人生の綱渡りにおけるそれは、医療であり、福祉であり、ときには宗教なのかもしれない。
わたしは聖書を読んで人に話すことをなりわいとしている。牧師の仕事の中心は、礼拝のなかで聖書の話をすることだといえる。ところで聖書のなかに、現代のような意味での自殺は見られない。自ら命を絶つとしても、それは戦に敗れたときなどに、武士が切腹するような意味あいの行為である。現代人に近い感覚で絶望し首をつるのは、どうやらイエスを裏切ったユダだけのようだ。聖書に語られる古代社会は疫病や飢饉、戦乱に幾度もさらされ、人々は生き延びることに一所懸命だった。だから現代人のような絶望を味わっている暇などなかったのかもしれない。
一方で、おそらくある程度の富裕層や知識階級に属した人々において、「自分など生まれてこないほうがよかった」という嘆きに通じる表現は聖書に散見される。
「やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、 言った。 わたしの生まれた日は消えうせよ。 男の子をみごもったことを告げた夜も。 その日は闇となれ。 神が上から顧みることなく 光もこれを輝かすな。」ヨブ記 3:1-4新共同訳
これなど生まれてきた日付、すなわち自分の誕生の全否定である。さらにはこんな表現もある。
「わたしは虫けら、とても人とはいえない。 人間の屑、民の恥。 」詩編 22:7 同上
わたしたちが苦しさのあまり自嘲して「自分なんかクズだ」と落胆する状況に、ぴったり寄り添うような言葉である。
- 1
- 2