肉食をやめ、牛乳を飲んだ奈良時代の貴族たち
貴族の一部は日常的に牛乳を飲んでいた?【和食の科学史③】
■疫病をきっかけに内乱が起きた古墳時代
3世紀になると、大和朝廷を中心に日本の統一が進み、7世紀まで続く古墳時代に移行します。712年に成立した『古事記』、720年成立の『日本書紀』には、この時代に伝染病がたびたび流行して多くの人が亡くなったと書かれていますが、流行病を意味する疫病(えきびょう)としか記載されておらず具体的な病名はわかりません。
古墳時代には大陸から医師が来日し、天皇など身分の高い人の治療にあたっていました。しかし病気の原因も治療法も不明なため、素朴な薬草治療を行うのが精一杯だったようです。代わりに重視されたのが加持祈祷でした。病気は神仏のたたりで、とくに全国レベルの疫病は政治が間違っているせいだと信じられ、たびたび大規模な祈祷が行われました。この考えかたは室町時代まで続きます。
疫病をしずめるために宮中で始まった儀式のなかには、のちに庶民に広がり、形を変えて現代に伝わるものもあります。お屠蘇、節分の豆まき、ひな祭り、5月5日に菖蒲の葉を飾る風習、茅の輪くぐりなどがその例で、5月5日は611年に推古天皇が大規模な薬草狩りを行った日です。この故事にちなんで、菖蒲の葉を風呂に浮かべたり、笹の葉で包んだ粽(ちまき)を食べたりする習慣が生まれました。長い歴史があるのですね。
6世紀後半に仏教が伝来してまもなく、瘡(かさ)、現代でいう天然痘の記述が『日本書紀』に登場します。天然痘は天然痘ウイルスによる感染症で、急激な発熱や頭痛、関節痛で発症し、数日たつと発疹があらわれます。発疹は水ぶくれになって膿がたまり、やがて、かさぶたに変わることから「かさ」と呼ばれたのでしょう。死亡率が20~50パーセントにのぼる危険な病気で、回復しても発疹のあとが「あばた」として残りました。
当時の人も天然痘に一度かかったら二度と発症しないことは知っていました。しかしウイルスによる感染症であることは理解できず、日本古来の神々の怒りによるものだと噂しました。その当時、海外から伝わった仏教を重んじる蘇我氏と、従来の神道を尊ぶ物部(もののべ)氏のあいだで緊張が高まっていたのです。
このときの流行をきっかけに、587年には、ついに丁未(ていび)の乱という内乱が勃発します。この戦いに勝利した蘇我氏は権勢を強め、仏教の浸透が進みました。
天然痘は近代まで繰り返し流行し、人類が天然痘の撲滅に成功するのは21世紀も近づく1980年のことです。