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志摩台場での恐怖体験

外川淳の「城の搦め手」第85回

■大谷山台場を調査

 鳥羽藩稲垣家は、1863年、領内46カ所に台場を築造した。台場の築造目的は、国土防衛というよりむしろ、朝廷への政治的配慮による。

 朝廷は、諸外国が伊勢神宮を占領するなどいうありえない恐怖から、幕府に対して志摩の防御強化を要請。

 すると、公武融和政策を推進する幕府は、朝廷の要請に応じた。そして、幕府の命を受けた鳥羽藩は、役にも立たない台場を多数築くことにより、朝幕融和に貢献しようとしたのだ。

 大多数の台場には大砲は設置されず、イミテーションの木砲が代用された。このような目的で築かれた台場のうち、20数カ所の遺構が今日に伝えられる。志摩の台場は、朝廷の要求に応じるという政治目的で築造され、当時から役に立たない存在だった。

 だからといって、遺構の存在の意味がないわけではなく、その当時の政治情勢や軍事技術のレベルを知るには、存在には意義がある。
 だが、その存在は忘れさられ、地元の研究家の調査活動により、ようやく認知されている程度に過ぎない。志摩台場群については、2001年以降、3回も探査した。

 

写真を拡大 大谷山台場略測図 作成/外川

 鳥羽から市営の定期船を利用し、菅島へ向かい、港から徒歩10分の大谷山台場に到着。3時間ほどかけ、略測図を作成した。図の①の周辺には高さ50センチの土塁が存在。周辺は半円形の削平地となっている。作図はしたものの、農地である可能性も否定できない。

大谷山台場遠望
矢印の先が砲台分部にあたる。

 先端部の砲台に到達するため、写真とは反対から尾根を目指して崖をよじ登った。尾根までたどりついたものの、先端へ行くには、幅1・5メートルの尾根を10メートル進む必要があった。尾根の両端は断崖絶壁。

大谷山台場へ向かう尾根筋

 尾根上には雑木が生い茂って進行もままならず。天気はよいものの、強風が吹き荒れていた。そして、私は極度の高所恐怖症。それでも、慎重に尾根筋を進み、なんとか先端部に到着。高さ1・5メートルの土塁が残存することを確認できた。

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外川 淳

とがわ じゅん

1963年、神奈川県生まれ。早稲田大学日本史学科卒。歴史雑誌の編集者を経て、現在、歴史アナリスト。



戦国時代から幕末維新まで、軍事史を得意分野とする。



著書『秀吉 戦国城盗り物語』『しぶとい戦国武将伝』『完全制覇 戦国合戦史』『早分かり戦国史』など。



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