お城と家紋
外川淳の「城の搦め手」第88回
■家紋地獄
今から20数年前、歴史雑誌の編集部に配属されると、いきなり家紋地獄へ突き落とされた。
それ以来、何度か家紋地獄を味わい、数年前。『歴史人』の「戦国武将の家紋の真実」という特集では、記事執筆にあたり、家紋地獄の淵に迷い込んだ。
家紋地獄とは、右巴か左巴かの違いで頭が混乱し、五三の桐の葉っぱの数を勘定しているうち、老眼が進行し、どんなマークも家紋に見えてくる精神的状態を意味する。
とはいいながらも通常の歴史学とは相違する観点や方法論もあり、家紋の世界は奥が深い。
家紋は、戦国時代において異常繁殖しながらも、江戸時代を迎えると、幕府や大名の統制下に置かれた。幕府は、大名や旗本の家を示す認識章として家紋を規定し、さまざまな規制を設定したのだ。
このような状況は、お城の歴史と似ているような気もする。お城もまた、戦国時代において異常繁殖しながらも、江戸時代になると、幕府の統制下に置かれている。
江戸時代には、お城の研究が進められ、歴史や構造が理論的に説き明かされた。だが、軍学と称される江戸時代の軍事研究は非科学的な論理によって構成されおり、ほとんど役に立たない。城郭研究についても同じことがいえる。
第二次世界大戦後、軍学を基礎とする城郭研究は否定され、今日に至る。
家紋についても、江戸時代には、歴史的変遷について研究が進展し、紋章学という学問研究の一分野が成立した。
今日的視点みると、家紋は自然増殖したにもかかわらず。法則を無理矢理に造り出し、ただのマークに有難みを与えようとするのが江戸時代の紋章学ともいえる。
城郭研究の場合、現在は江戸時代以来の間違った方向性から解放されている一方、家紋研究の世界は、江戸時代以来の伝統に引きずられているようにも思えた。
昨年の2月号「戦国武将の家紋の謎」以来、『歴史人』では「家紋」を特集してないが、そろそろやる頃だろうか? そうなれば、1か月前から地獄と下界の境目にあり、もう1か月は、家紋地獄の燃え盛る炎に苦しめられる予定。