斉明朝の土木事業に反感を抱いた民衆
聖徳太子の死にまつわる謎㉗
■百済遠征のため駿河国で船舶を作らせた中大兄皇子
たとえば『日本書紀』斉明二年(六五六) 是歳の条には、斉明朝 (皇極天皇が孝徳の死後、重祚して斉明天皇になった) が行った数々の土木工事に対し、人々は「正気の沙汰ではない 」と非難している。このとき作った石垣は、「出来上がったそばから崩れてしまうだろう」と噂されたというのだから、人々がこの朝廷の事業に対し、サボタージュで反抗したことが 推察されよう。
『日本書紀』はこの事業をあたかも斉明天皇の命令によって 行われたかのように記しているが、孝徳天皇を捨ててヤマトに都を遷したのが中大兄皇子であることを思えば、斉明朝の数々 の事業が中大兄皇子の強い指導力のもとで行われたことは、まずまちがいない。
人々が中大兄皇子に対して反感を抱いていた事実は、これだけではない。
『日本書紀』斉明六年(六六0) 是歳の条には、百済遠征のた めに必要な船舶を駿河国に造らせているが、この船は造り終えて伊勢国に曳航し、岸につないでおいたとき、夜中に理由もなく血と鱸の向きが逆になっていたという。この一件によって、 人々は この遠征が失敗に終わることをすでに悟っていたという。
また百済遠征失敗後、帰国した中大兄皇子は、天智六年(六 六七)、都をヤマトから近江に遷したが、このことに対しても 人々は口々に不平をもらしている。
『日本書紀』の記述によれば、このとき中大兄皇子が決定し た遷都に対し、大多数の民衆がこれを願わず、口々に非難し、 しかもあちこちで昼夜を問わず人の手があがったという。すなわちこれは、中大兄皇子に対する一種の武力抵抗であり、あるいは暴動に近い騒ぎが起こったことは想像にかたくない。
中大兄皇子の行動に対する民衆の徹底的な反抗。通説はこの 理由を、皇子の推し進めた急激な制度改革に対する民衆の不満 の表れとしている。しかし、これはまったくの誤解だ。なぜな ら孝徳天皇から権力を奪いとってからの中大兄皇子は、律令整備をめざしていないからである。
(次回に続く)