「四国王」として興隆を誇った長宗我部氏だったが関ヶ原合戦を機に御家は断絶。盛親は、大坂の陣にその再興を賭けた――。
盛親が満を持して実力を発揮したのは、翌20年5月の八尾(やお)の戦いである。前年暮れの和睦により、大坂城は惣構えだけでなく内堀まで埋められ、裸城になっていた。そのため、城外出陣しか活路がなくなり、家康・秀忠の本陣を狙うしかなかった。
5月6日、大坂方は道明寺方面に真田信繁・後藤基次・薄田兼相(すすきだかねすけ)らが向かい、長宗我部勢5000は木村重成勢など2万人で立石街道を東進した。あたりは河内平野の低湿地で、いくつかの川が南北に流れていて街道が至るところで切断されている。そのため、先頭を進む木村勢が道に迷ったりして行軍は難渋した。
東高野街道を南下してきた徳川方のうち、井伊直孝と藤堂高虎の軍勢が先手となり、豊臣方の意図を挫こうと進軍してきた。なかでも熟練の武将である高虎は見事な動きを示した。備えを数手に分け、大和川を渡り若江(わかえ)に向かう豊臣方の横腹を突いたのである。そのため、長宗我部勢の先手である吉田内匠(たくみ)と増田盛次(ましたもりつぐ)が萱振あたりで藤堂高吉・同式部に横撃されて、思わぬ形での開戦となった。(続く)
文/桐野作人(きりの さくじん)
1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。