蘇我系豪族が壬申の乱で大海人皇子を支援した訳
聖徳太子の死にまつわる謎㉜
■ヤマトを二分した勢力とは
壬申の乱に際し、近江朝の蘇我系豪族が、こぞって大海人皇子に加担し、大友皇子の敗北を決定づけていることである。
大和岩雄氏の述べるように大海人皇子が漢皇子であったと考えると、謎は氷解する。
なぜ、大海人皇子と漢皇子に注目したかというと、中大兄皇子の入鹿殺しの裏側に、複雑な兄弟の確執が隠されていると考えたからである。 ここで、「中大兄皇子の目線」に切り替えてみよう。
舒明天皇が崩御した時点で、中大兄皇子は「天皇と皇后の間の子」であり、舒明天皇と蘇我系の女人との間の子の古人大兄皇子を、血統という意味では一歩リードしていた。だから、舒明崩御と同時に、即位の可能性は十分に残されていたはずだ。しかもこのとき、「漢=大海人皇子」は「王」で、「皇子」ではない。
だが、蘇我氏が皇極を玉座に据えたことによって、中大兄皇子即位の芽は摘み取られてしまった。蘇我の後押しを受ける「漢王」が「漢皇子」になっていたからだ。皇極天皇の崩御ののち(あるいは禅譲でもよいのだが)、漢皇子が即位してしまえば、蘇我の血の薄い中大兄皇子は、忘れ去られるだけである。
中大兄皇子は、狙いを「蘇我」にしぼり、政権転覆を謀ったということになる。ただし、 蘇我本宗家を潰した乙巳の変は政権の転覆とはならず、単なる要人暗殺に終わったのだろう。中大兄皇子が即位できず、蘇我の息のかかった孝徳が政権を継承したのは、 一時的な混乱を収拾し、ひとまず漢皇子を安全な場所に遠ざけるためであろう。
では、もうひとつの理由とは何だろう。 それは、ヤマト朝廷を二分する勢力の存在である。 話は、三世紀後半(あるいは四世紀) のヤマト建国にさかのぼる。 『日本書紀』に描かれた神武東征のイメージは、「強い征服王」である。だが、この場面、 よく読むと、神武天皇はけっして敵を圧倒したわけではなかったことが分かる。大阪方面からのヤマト入りに失敗し、一行は大きく紀伊半島を迂回する奇襲を選択している。しかも、ヤマトに陣取る敵の姿をみて、「とてもかなわない」と観念している。
ではなぜ、神武はヤマトの王に立ったのかといえば、神託を得て敵を呪ったこと、ヤマトにすでに舞い降りていた饒速日命 (物部氏の祖) なる人物に、王権を禅譲されたからである。 考古学も、「ヤマトの弱い王」を証明している。ヤマト建国時、各地の首長がヤマトに集まり、彼らの総意によってヤマトの王が立てられていたことが分かってきたのである。
(次回に続く)