改革派の天武が目指した律令とは似て非なる持統の制度
聖徳太子の死にまつわる謎㊱
■東国の後押しを受けた天武が壬申の乱で近江朝を制する
『日本書紀』は、一貫して「東国」を、野蛮でヤマトに支配される地域として描きつづけている。しかも、五世紀のヤマトと東国の強いつながりを、記録していない。なぜヤマトの王家の後ろ楯となった「東国」を、『日本書紀』は悪し様に描くのだろう。
考えてみれば、『日本書紀」は雄略天皇をも、よく書いていない。この符合は、偶然ではあるまい。
『日本書紀」編纂直後から、朝廷は東国を警戒し始める。都に不穏な空気がみなぎると必ず東国に抜ける二つの表を封鎖し、謀反人が東国に逃れ、兵を挙げるのを阻止しようと目論んだ。これを三関固守といい、「西国」にはそのような処置をとっていないから、八世紀の朝廷が「東国」を仮想敵国にみなしていたことは間違いない。
なぜ、五世紀のヤマトの王家は東国を頼り、八世紀にいたると態度を変えたのだろう。 じつはここに、古代史の謎を解く大きなヒントが隠されている。
まずここではっきりとさせたいのは、六世紀から七世紀にかけての人脈で、誰が 改革派で、誰が反動勢力(守旧派)だったのか」その色分けである。
すでに触れたように、六世紀末から七世紀にかけての改革派は、聖徳太子や「蘇我の王家」、そして「蘇我氏」であったと思われる。『日本書紀」に従えば、中大兄皇子や中臣鎌足こそ、改革派の旗手ということになるが、彼らは改革をめざして蘇我入鹿を殺したわけではなかったのである。
蘇我本宗家滅亡後、蘇我の遺志を継承したのが孝徳天皇であり、この王家を潰しにかかったのが中大兄皇子だった。したがって、中大兄皇子=天智天皇は反動勢力であり、守旧派に分類可能となる。
天智天皇崩御ののち、天下を取った天武天皇は、皇親政治を断行し、プルドーザーのように律令整備に奔走している。したがって、天武天皇は改革派、ということになる。
問題はここからだ。ここまでの色分けによって、「改革派」に分けられた人脈には、 ひとつの共通点が見出せる。それは、彼らが「東国」と接点をもっている、ということなのである。
もっとも分かりやすい例は、天武天皇だろう。近江朝を相手に、この人物は裸一貫で立ち向かっている。わずかな身の回りを世話する舎人を引き連れ、東国に逃げただけで、天武は圧倒的な勝利を手に入れてしまっている。これはなぜかといえば、天武が東国の後押しを受けたからにほかならない。
次に、蘇我氏だ。蘇我氏と東国のつながりは、入鹿の父・蘇我蝦夷の名の中に隠されている。「蝦夷」の別名は「武蔵」で、どちらも東国と深い因果で結ばれている。 蘇我蝦夷と入鹿は、乙巳の変の直前、身辺を兵士で固めていたというが、それは東 方債従者だったという。これは、「東国の屈強の兵士」のことを意味している。なぜ、きな臭い気運の中で、蘇我親子は、東国の人々を頼ったのだろう。それは、蘇我氏が 東国の後押しを受けて、改革事業を推し進めていたからではなかろうか。
蘇我氏と東国を結びつけるもう一つの要因は、尾張氏である。 『日本書紀』宣化元年(五三六)五月の条には、次のような記事が載っている。各地 の屯倉の穀物を都に運ばせるために、物部氏や阿倍氏は、共通の祖をもつ同族の者を遣わし、蘇我氏は尾張氏を遣わしたというのである。蘇我氏と尾張氏の間には、血のつながりがない。すると、両者は、同族ではないが、強い絆で結ばれていたことを暗示している。すでに触れたが、壬申の乱で天武を勝利に導いたのが、「蘇我と尾張」だったことは、ここにきて、偶然ではなかったことに気づかされる。
改めて述べるまでもなく、尾張氏は東国の入口を押さえていた雄族であり、蘇我氏とつながっていたということは、蘇我氏そのものが、東国と結ばれていたことを示している。
(次回に続く)
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