【連載】適菜収 死ぬ前に後悔しない読書術
〈第1回〉マクドナルド的人間
哲学者・適菜収が新刊『死ぬ前に後悔しない読書術』で初めて語った極意とは
「読書で知的武装」するなんて実にくだらない!
第1回
マクドナルド的人間
身近なところにこういう奴いませんか?
「最近なに読んでいるの?」
「うーん、流行っているのを少し読むくらいだね」
「最近なにを聴いているの?」
「うーん、流行っているのを少し聴くくらいだね」
「最近、映画見た?」
「うーん、流行っているのを少し見たくらいだね」
要するに薄っぺらい人。話が続かないので議論にもならない。
大学時代の麻雀友達で大垣君という奴がいたんです。
彼の家に遊びに行ったことがあるのですが、とにかく部屋に何もない。本も教科書くらいしかない。
CDが二枚しかなくて、そのうち一枚が「早稲田大学校歌集」、もう一枚が「慶應大学校歌集」だった。彼はなぜか慶應大学が大好きなんです。普段はおとなしくて、何ひとつ主張しないのですが、ある日、私の部屋に押しかけてきて、「これから慶應大学の学園祭があるから一緒に行こうよ」と。
「行くわけないだろ」と拒否すると、「行こうよ、行こうよ。お願いだから行こうよ」と必死に食い下がる。
そこまで真剣な顔で自己主張する大垣君をそのとき初めて見た。
少し乱暴な言い方かもしれませんが、薄っぺらい人間が全存在をかけて繰り広げる主張はたいていその程度のものです。
知識人や論壇人が書いている文章でも「慶應大学の学園祭に行こうよ」レベルのものは多い。
ダメな人が書いているものを読んでも、意味がない。害しかありません。
もう一人、清水君という友人がいて、彼もほとんど本を読まない。
一回、私の自宅に清水君を招いて、すき焼きを食べたことがあります。
清水君が「この肉は旨い」としきりに感心するので、食事会も中盤になったころ、「これ何の肉だと思う?」と訊き いたら、しばらく考えた挙げ句、「うーん……たぶん、牛肉なんじゃないかな」と。まあ、たしかに牛肉なんですけど。そういう奴なんです。
大学を卒業して少したった頃、清水君と女の子二人と私の四人で目白のフレンチに行ったことがあって、そのときも清水君が感動して「こんな旨い料理、食べたことがない」と。
普段はマクドナルドで食べているような奴なので、「マクドナルドとどっちが旨い?」
と訊いたら、真剣に考え始めて、「うーん、どっちかなあ。そんなこと、これまで考えたこともなかったからなあ。微妙だなあ」と。
微妙なんですよ。
本を読んでいない奴は、ほとんどが薄っぺらい。
じゃあ、本を読んでいない奴は全員ダメなのか?
全員ダメです。
とにかくそういう奴は、あらゆる文化に対して薄っぺらいんですね。
きちんとした映画も見ないし、きちんとしたレストランにも行かない。
マクドナルドみたいな本を読み、マクドナルドみたいな映画を見て、マクドナルドみたいな音楽を聴き、マクドナルドに家族で通う政治家に投票してしまう。
こういう人は、言い訳だけは上手です。
「忙しくて本なんて読んでいられない」
「そのうち読む」
「仕事に直結しない」
「そんなことを知っていてどうするんだ」
「人それぞれなんだから構わないじゃないか」
「うまくやっているんだから、いろいろ言うな」
あるとき、四国の話題になったのですが、清水君の言っていることがどこかおかしい。
それで四国に何県があるか訊くと、「愛媛県、高知県、徳島県、高松県」だって。
それで一緒に酒を飲むたびに同じ質問をしたのですが、絶対に覚えない。
そのうち、怒り出すわけですよ。「オレと四国は関係ない」「なんでそんなことを知る必要があるのか」と。
これは極端な例かもしれませんが、あらゆることに関して「オレとは関係ない」「なんでそんなことを知る必要があるのか」という人は意外と多い。
「とりかえしのつかない人」は、どんどんとりかえしがつかなくなっていきます。
精神的な余裕がなくなり、余計に忙しくなる。
仕事にも差し障りが出てきて、不幸になる。
なぜなら、人間は社会的な動物であるからです。
四国を知らない人間は、なんとなく警戒される。
政治を知らない人間が政治家をやっていたらまずい。
当たり前の話なんですけどね。
だからといって四国を知っていればそれでいいというものでもない。先述したように、厖大な知識をもつバカもいるわけですから。
バカとは価値判断ができないことです。
価値判断ができないから変なものを取り入れてしまう。
そしてますます変になっていく。
真っ当な価値判断を身につけるには、真っ当な価値判断のできる人から学ぶしかありません。
では真っ当な価値判断のできる人はどのように決まるのか?
それは歴史や伝統が明らかにしています。
価値判断のできる人とは、価値判断ができる人が、価値判断ができると認めた人のことです。
だから価値判断ができる人が書いた本を読むことが、なによりも大切なのです。
人類は過去、ありとあらゆることを考えてきました。
その歴史につながる作業をしないとまずいわけですね。
人間とは人間の歴史に連なることです。
価値の連鎖に身を置くことです。
「今はそんな時代ではない」
「時代のスピードに取り残される」
「自分には自分なりの価値基準がある」
こういう人は、結局、取り残されていきます。
なるべく社会に迷惑をかけないように余生を過ごしてほしいものですが、こうした連中に限って声がでかい。
社会の第一線にバカが居座り、権力の中枢において価値の破壊が行われているのが現在です。
それでも「人間とはもう少しマシな存在ではないか」と思う人は、本の読み方を一度きちんと見直したほうがいい。
世界が環境との関係性であるとすれば、本を読むことでほとんど人生は変わるのです。
〈第2回「読書術・読書論を100冊読んでみた」につづく〉
著者略歴
適菜 収(てきな・おさむ)
1975年山梨県生まれ。作家。哲学者。ニーチェの代表作『アンチクリスト』を現代語にした『キリスト教は邪教です!』、『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』、『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』、『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』(以上、講談社+α新書)、『日本をダメにしたB層の研究』(講談社+α文庫)、『日本を救うC層の研究』(講談社)、『なぜ世界は不幸になったのか』(角川春樹事務所)、呉智英との共著『愚民文明の暴走』(講談社)、中野剛志・中野信子との共著『脳・戦争・ナショナリズム 近代的人間観の超克』(文春新書)など著書多数。