広い関東から河内“狭”山へ移った殿様
北条氏、狭山藩藩主着任400周年記念イヤー。
熊本大震災で被害に遭われた方々に、心からお悔やみ申し上げます。
どうか一日も早く九州に平穏な日常が戻りますように。熊本城が元の姿に戻りますように。
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大阪府狭山市の府立狭山池博物館では、4月16日まで特別展「狭山藩北条氏」を開催しておりました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の大軍に包囲された北条5代の本拠地・小田原城は開城降伏し、北条氏直は一命を助けられて紀州高野山に謹慎します。翌年、秀吉に許されて河内などで計1万石の大名に復帰したものの、その年の内に病気で急死。
また、この氏直の叔父・氏規も別途に河内で2,000石を与えられ、のちに加増を受けています。その子氏盛はいとこにあたる氏直の跡を継ぎ、その遺領の内4,000石と、父・氏規の遺領7,000石を相続して1万1千石の大名となるのですが、これが河内狭山藩初代の殿様という事になります。そして、今年がその400周年アニバーサリーという節目。
一時は関東に覇を唱えた北条五代。関東の広い天地を我が物とした王者の流れを汲む狭山藩北条氏は、一転文字通り縁もゆかりも無い近畿の南方の狭い領地に引っ込んでしまった訳ですが、北条氏の家紋・三ツ鱗はそんな事関係無く、狭山の地でも金色に輝き続けたのです。
ちなみに、藩祖・氏盛の父・氏規は、かつて今川家の人質として駿河に滞在し、その折りに同じく三河岡崎から人質として駿河に来ていた少年時代の徳川家康と知り合っていたようで、のちに北条氏が秀吉と外交交渉をおこなう際は家康が仲介して氏規が秀吉のもとに赴いています。
氏規は当時「賀栄(がえい)」という幼名を名乗っていましたが、今川義元の母・寿桂尼の外孫という事で、家の規模も立場も家康とは格段の差があった訳ですが、のちふたりの関係が良かったところを見ると、氏規はセレブぶりを鼻にかけるような事の無い実直な少年だったのでしょう。