人質にちょうどいい男
季節と時節でつづる戦国おりおり 第235回
打ち合わせで上京のついでに、江東区の霊厳寺さんに寄って参りました。「寛政の改革」で有名な江戸幕府老中・松平定信の墓所として知られる寺ですが、境内には越後高田藩榊原家代々の墓もあります。
ですが、戦国系ブログとしては何と言っても膳所藩本多家の墓、です。
水鉢の前面にはしっかりと本多家の立ち葵の紋が入っていますね。このお墓が何代目の方々を弔ったものなのかは存じませんが、初代藩主・康俊は徳川四天王筆頭・酒井忠次の次男で、本多忠次の養子となった人物です。母は徳川家康の叔母ですから、家康とは従兄弟同士。
天正3年(1575)、彼が人質となって織田信長の岐阜城に赴いたために、長篠合戦で信長は安心して家康と連合軍を組み、武田勝頼を粉砕しました。
15年後の小田原征伐でも彼は人質として豊臣秀吉の聚楽第に入っています。
家康の親類で忠次の義子。それでいて身代は軽く(養父の忠次は知行わずかに50貫文)、家康にとっても相手にとっても人質に「ちょうどいい」人物だったのでしょうね。