北海道沿岸に残る戦争が生んだ異景
戦争末期に築かれたトーチカ
戦争末期の防衛陣地
太平洋戦争末期、アメリカ軍の本土侵攻を迎え撃つ防御陣地が、太平洋沿岸の上陸予想地点に数多く設けられた。北海道の南岸、襟裳(えりも)岬をはさんだ胆振(いぶり)・道東の海岸線も同様だった。
昭和19年(1944)3月、大本営は千島列島と北海道東部の防備強化を決定、対米ソ戦から対米戦のみの対応に方針転換して旭川第七師団の道東移駐を命令。日ソ中立条約に頼っていた陸軍は、とりあえず差し迫っていた米軍の脅威を優先させたのだ。
そして夏から翌年にかけて、苫小牧から道東の根室、常呂(現在の北見市)に至る長い海岸線に、トーチカや戦車壕、塹壕などの防衛陣地が多数築かれていった。
装備火器は主に機関銃や野砲類だったが、これらが敵軍の侵攻に対してどれだけ有効であったのかは疑問が残る。なぜなら、その頃守備隊が玉砕した南洋各地の例をみても分かるように、アメリカ軍は強力な艦砲射撃と空爆を行った後、圧倒的な人員と武装で上陸してくるのだ。
それでなくても、物資の不足から鉄筋を入れられず、コンクリートだけで造られたトーチカが、要求された1トン爆弾の破壊力に耐えられたかどうか疑わしい。しかも工事初期はコンクリートがなく、木材でトーチカを造ったケースさえあったという。
実際に上陸作戦が行われたら海岸での防御は数時間ももたず、時間稼ぎにもならなかっただろう。内陸にも防衛線を張っていたが、持久戦に持ち込んでいたら、北海道でも壊滅的な被害が出たはずで、連合軍による上陸作戦が行われる前に戦争が終わったのは何よりだった。
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