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孤島で戦死した池田恒興

季節と時節でつづる戦国おりおり第237回

 今から432年前の天正12年4月9日(現在の暦で1584年5月18日)、長久手の戦い。羽柴秀吉軍の池田恒興・之助父子、森長可らが徳川家康に攻められ戦死を遂げる。

 織田信長の三男・信雄と組んだ家康が、秀吉の覇権を阻止しようと小牧でにらみ合い、膠着状態のなか恒興が娘婿の森長可らとともに、秀吉の甥・三好秀次を大将に担いで三河に迂回侵入し、家康の背後をかく乱しようと図った作戦でした。

 ところが、それを察知した家康はまずひそかに榊原康政を先発させ、次にみずから小牧山城を出撃し、榊原隊が秀次隊を待ち伏せて攻撃、家康本隊も恒興らの背後を襲ったため、秀次は命からがら逃げ延び、恒興らは那古屋(現・名古屋)東方の長久手で一敗地にまみれ、枕を並べて討ち死にします。
 

小丘陵全体が長久手古戦場跡

「長久手」の地名は「長い湫」。湫とは低湿地を意味するのですが、現地は古戦場跡をはじめ小さい丘や山が島のように散在しており、かつてその合間の低地は沼や池、田圃などが広がっていたのでしょう。

古戦場の北の尾根。家康本隊はこの山陰からいきなり姿を現し、家康の旗印・金扇を翻らせて恒興らを大混乱に陥れたといいます。

 

池田恒興戦死地に建つ「勝入塚」

池田之助戦死地に建つ「庄九郎塚」

 

森長可戦死地に建つ「武蔵塚」

  これらの塚は、おどろくほど狭い範囲に集まっています。家康本隊に襲撃され、少しでも有利な地形で抵抗しようと皆がこの小丘に自然と集まったのでしょうか。

 小丘はまさに小島のようなありさまで家康軍で埋まった海のような目の下の低地に浮かぶ中、恒興らの絶望を思うと同情に堪えません。

 この戦いでただ一人、池田ファミリーの中で生き残った次男・輝政が後徳川幕府の大大名になるとは、この時だれ一人想像できなかった事でしょう。

 

 

 

 

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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