ざっくりここらへんで生まれたらしい 木下藤吉郎
鈴木輝一郎 戦国武将の史跡をめぐる その1
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ開幕!
なんとなく出かけた秀吉の生誕地で見たものは……!
戦国の史跡に囲まれた場所に住んでいると、
どうにも横着になっていかん。
同業者知人の自宅の近所に、
太閤秀吉の生誕地(らしい)豊国神社があった、
とだいたいの記憶があった。
過日名古屋に電車で(普通は自動車で移動してます)いったついでに、
下調べもなしに行って、地下鉄ふた駅ぶんを歩いた。
こんないい加減な現地踏査でもちゃんと見つかるから、
岐阜に住んで戦国物を書くのはラクなわけなんですが。
場所は『豊国神社(ほうこくじんじゃ)。
「太閤まつり」ってのが毎年5月中旬に行われています。
豊臣秀吉こと羽柴秀吉こと木下藤吉郎は、
天文6年(1537年)生まれのようです。
生まれた場所は「尾張中村」。
そこまでは間違いない。
ところがこの豊国神社、創建が明治18年と、
きわめて新しい。
歴史の場合『最後に書いた人の敵の敵は味方』って法則がある。
明治政府にとって徳川は敵で、
その敵だった豊臣は偉い人扱いにされたんですな。
徳川時代に書かれた
豊臣秀吉の伝記(信頼性は低いけどね)の『甫庵太閤記』も、
通して読むと秀吉の出世してる部分はすくなくて、
多くが秀吉の陰険さとか下克上の無茶ぶりをたしためてます。
まあ、そんな具合なので、
この豊国神社近辺で秀吉が生まれた、というのは、
「大きく嘘はついていないけれど正確ではないし、
かといって間違いだと断言する根拠もないので、
ここで生まれましたといっても許しちゃおう」
ぐらいの話です。
秀吉の青少年時代はほとんど何もわかっていないので、
これでもまだ史跡としては良心的なほうですけどね。
いまでこそこんなツインタワー
(写真はJR高島屋&マリオットアソシアホテル)
がそびえる大都会ですが、
尾張中村は戦国時代、田圃ばかりのひなびた土地でありました。
以下は『祖父物語』(戦国時代に残された伝聞集。信頼性は「まあまあ」)から。
秀吉の最盛期、小田原攻めに向かう途中、秀吉は尾張中村に立ち寄った。
そこで「二王という者はおらぬか。余よりいくらか年上の者だが」とたずねた。
「ガキのころ、二王が刈り取った草をちょっとくすねたら、
二王がカマの柄でしたたかに殴ってきてなあ。
その恨みはいまだに忘れられんのや。見つけて首をはねたいんやが」
という。
「二王はすでに死んでおりまする」
「ならば子はおらんか」
「子供もすでに死んでおりまして孫しかおりませぬ」
「孫では遠すぎる。しょうがねえな」
とあきらめた由。
陽性にみえるけれど、
なかなか太閤秀吉は根が暗いというか執念深いというか。
だからまあ、あそこまで出世できたんでしょうけどねえ。
(了)