美空ひばりとジャニー喜多川、大物たちへの手のひら返しバッシング。マスコミの正体は「芸能の敵」である【宝泉薫】
それこそ、ひばりもジャニーズも文化人などからは「低俗」だとバカにされがちだったが、世間の不特定多数が支持していたため、バッシングからは免れていた。それゆえ、上前はこう書く。
「しかしいま、古い日本の残滓を打破する社会正義感に燃えているのは世間のほうであった。〝暴力団〟とつながっているひばり姉弟は、抹殺されなければならない、と人々はいった」
今回の騒動に置き換えるなら、セクハラ男とつながっているジャニーズ一族郎党は抹殺されなければならない、とでもいったところだろうか。
それはさておき、ひばりが最も可愛がったジャニーズアイドルはマッチこと近藤真彦。その出会いは、80年7月放送の「ばらえてい テレビファソラシド」(NHK総合)である。
当時、ドラマでブレイクしてこの番組のレギュラーになり、歌手デビューを控えていたマッチはリハーサルで歌っていたひばりを見て、
「あのおばさん、すっげぇ歌うまいよ」
と、口に出してしまった。事務所のスタッフがあわてて楽屋に連れ戻り、すぐにひばりの元へ謝罪に出向くと、
「あら、ジャニーさんのところの子なのね。おばさん、歌うまいって最近なかなか言ってもらえないから、うれしかったわよ」
と、優しく迎えたという。
実際、ひばりの歌がうまいというのはもう常識で、わざわざ言う人もいなかったのだろう。そして、彼女はやんちゃなタイプが好みで、ふたりは同じ神奈川県の出身でもあった。さらに「ジャニーさんのところの子」というのも親しみにつながったと考えられる。
何しろ、ひばりは13歳のとき、19歳のジャニーに仕事を手伝ってもらっていたからだ。
1950年、ひばりは米国公演を開催。ロサンゼルスで会場となったのが、ジャニーの父によって建てられた仏教系の教会で、ジャニーは通訳をしたり、ブロマイド販売をしたりしたという。ブロマイド販売については、事実上ノーギャラだった日本人歌手たちのため、ジャニーが思いついたとのちに明かしている。
「場内でそれを売って、その売り上げを全部、日本から来たアーチストにあげたんです。僕はまだ子供だったけど、ひばりちゃんをはじめとして、アメリカに来たアーチストには全部関わっているんですよ。そうしたことが、マネージャーの始まりです」(現代ビジネス)
その後、ジャニーは帰国してアイドルを手がけるようになるわけだが、60年代半ばには早くもセクハラが訴訟化することに。おそらく、当時から噂は存在していたはずだ。
しかし、ひばりがそういうものを嫌っていたとは考えにくい。「ジャニーさんのところの子」という表現からは、独特の、気を許している感じが伝わってくるし、芸能とはそういうものだという見なし方もしていたのではないか。それは森光子や黒柳徹子といった、ジャニーズと親しかった大物女性たちにも共通することだろう。
暴力団とのつきあいについてもしかり。芸能とはそういうものだという見なし方を、かつては世間の不特定多数も共有していた気がする。
ただ、上前のいう「社会正義感」は、時代によって変わる。その後、暴力団もセクハラも排除対象となったため、不特定多数の社会正義感によって叩かれることとなった。マスコミは不特定多数と共調することでしか生きていけないので、一緒になって、あるいは先導したり後追いしたりしながらバッシングに精を出す。