科学の進歩によって振り出しに戻った邪馬台国論争!?
明らかになった天武天皇の巨大プロジェクト!!
炭素14年代法と纏向(まきむく)遺跡の発掘!!
ここ三十年で、古代史は大きく塗り替えられたと思う。特に、考古学の発掘調査が進み、そのたびに、新事実が浮かび上がってきたのだ。
たとえば七世紀後半に天武(てんむ)天皇の手がけた巨大プロジェクトが明らかになった。
日本列島を縦横に走る道幅十メートルを超える巨大幹線道路で、その路線は、現代の高速道路網をなぞるかのようだ。天武天皇は「古代版インフラ整備」を断行していたわけだ。
そして本当に驚くべきことは、この事実が歴史に残らなかったことだ。
これまで史学者たちは、「『日本書紀』は天武天皇のために記された」と主張してきた。
それならなぜ、天武天皇の大きな業績のひとつが、きれいさっぱり『日本書紀』から抜け落ちているのだろう。
答えは簡単なことで、『日本書紀』は天武天皇の死後数十年を経て編纂(へんさん)された「天武天皇の政敵の歴史書」だったということだ。具体的には、藤原不比等(ふじわらふひと)が編纂の中心に立っていた。藤原不比等の父・中臣(なかとみの)(藤原)鎌足(かまたり)は蘇我入鹿(そがの)かを滅ぼしたが、天武天皇は蘇我氏の後押しを受けて壬申(じんしん)の乱を制している。
だから藤原氏は乱ののち活躍の場を失い、天武崩御(ほうぎょ)後ようやく復活している。当然藤原不比等は、親蘇我派の天武を憎み、業績を抹殺してしまったのだろう。
邪馬台国論争も、考古学によって次々と新事実が明らかになった。纏向(まきむく)遺跡の発掘が進み、「邪馬台国はヤマトで決まった」と、豪語する史学者も現れたのだった。
科学的な絶対年代測定手法・炭素14年代法を用いて、箸墓(はしはか)(箸中山古墳)の造営年代は三世紀半ばだった可能性が出てきたからだ。ちょうど卑弥呼(ひみこ)が死んだ時代に重なってくると、大騒ぎになったのだ。しかし因果なことに、邪馬台国の時代に限って、炭素14年代法が導きだす絶対年代は、あてにならないことが分かってきた。
自然界の炭素14は一定の速度で徐々に減っていくため、出土した木片や炭化した穀物に含まれる炭素14を調べることによって、遺跡や遺物の絶対年代が割り出せる。
ただし、気象条件などによって減り方にバラツキが出るため、補正グラフを作るのだが、日本の三世紀から四世紀には、同じ数値が出ても数十年の幅が出ることが分かっている。
結局、箸墓の造営年代は「卑弥呼の死の直後」と断定できなくなってしまった。皮肉なことに、科学のさらなる進歩によって、邪馬台国論争は、振り出しに戻ってしまったのである。