こんなに弱くてゴメンナサイ…松前城(北海道松前町)の謎
“歴史芸人”長谷川ヨシテルが太鼓判を押す!?「最弱の城」
こんにちは。
歴史芸人の長谷川ヨシテルです。今回は北海道の南端に位置する「松前城」をご紹介いたします。
このお城は、幕末に完成した「日本式築城・最後の城」と言われています。築城開始は1849年、竣工は1854年。それ以前は、蝦夷地(北海道)を本拠地とした松前氏の「福山館(ふくやまだて)」がありました。福山館は1606年に築かれた小規模な城館だったのですが、江戸時代末期になるとロシアなどの外国船が相次いで出没し始めたため、“北方の海防”のために大改築され「松前城」が誕生しました。
縄張りを担当したのは、幕末の三大兵学者の1人である市川一学。この城は江戸時代260年と言われる歴史で培われた江戸軍学が凝縮されたお城でもあります。築城の目的通り、海からの攻撃に対しては、まさに鉄壁! 海が一望でき、敵の船が近づけばすぐに発見できます。また、当時の城壁には鉄板が仕込まれており、天守の壁には硬いケヤキ板が仕込まれていたそうです。
曲輪は数段に重ねられ、大手門や搦手門(からめてもん)からの通路は曲がりくねり、敵を横から射撃できる実戦的な縄張りになっています。また、付近の山から採れる緑色凝灰岩を利用した、精密な石垣も敵を寄せ付けません!
そして、この城の何よりの強みは大砲です。海から近づいて来た敵に対して強烈な砲撃を加えるために、何と7基もの砲台が築かれました。城外の海岸に備えられたものも含めると、驚くことに合計37基の大砲を有したと言われています。
そんな松前城は、1868年にいよいよ合戦の舞台となります。蝦夷地(北海道)に新政権樹立を目指す旧幕府軍の攻撃を受けることになったのです。敵は元新撰組副長の土方歳三が率いる約700の軍勢でした。
その土方隊に攻められた結果、松前城は何と…わずか数時間で落城してしまったのです! その理由は単純です。海側からの攻撃には万全の備えであった松前城でしたが、実は陸側からの攻撃の準備を全くしていなく、北側の寺町門を1つ突破すれば本丸まで遮るものないという驚きの欠陥縄張りだったのです。
この陸からのルートに設けられたのは、ただの蔵だったようで、城壁にも鉄砲や弓矢で攻撃するための狭間と呼ばれる穴もあまり設けられていなかったそうです。
海からの攻撃に関しては完璧だけど、陸からの攻撃を全く想定しておらず、わずか数時間で落とされてしまった松前城! これもまた『最弱の城』の1つなのです。