こんなに弱くてゴメンナサイ…安土城(滋賀県近江八幡市)の謎
“歴史芸人”長谷川ヨシテルが太鼓判を押す!?「最弱の城」
こんにちは、長谷川ヨシテルでございます。今回ご紹介するお城は、幻の名城「安土城」でございます。
安土城を築いたのはご存じ、織田信長です。1576年に築城が始まり、3年後に完成しました。しかし、1582年に「本能寺の変」が起きて信長が討ち死にすると、直後の混乱の中で安土城は何と、焼失してしまいました。つまり、この世に存在したのは、わずか3年だったということになります。
焼失理由は、織田信雄(のぶかつ=信長の次男)が誤って焼いてしまったとか、明智軍が撤退する際に焼き払ったなど、諸説あってはっきりしていません。
豪華絢爛だったという天守もその際に焼失してしまったのですが、お城の周辺施設には復元された模型が展示されています。こういった復元は、安土城を訪れた宣教師のルイス・フロイスが残した当時の記述などを基に作られているものが多いです。
こちらもまだまだ謎が多いのですが、色々な復元案を見る限り、実に鮮やかで非常に豪華です。金のシャチホコを初めて乗せたのも安土城の天守だと言われています。ちなみに、信長は日本史上ただ一人、天守に住んでいたそうです。外だけでなく中もチカチカした建物で、落ち着いて眠れたのでしょうか。
そんな天守からは、主要な街道や琵琶湖を一望できました。現在は埋め立てられているのですが、当時は琵琶湖に面して築かれた湖城だったと言われています。これには、天下統一プロジェクトのために、街道の流通や琵琶湖の水運を押さえる狙いがあったと考えられます。
さらに、括目すべきはその石垣のスケールです。近畿地方だけでなく東海・北陸からも人夫を動員して、石垣積み職人の穴太衆を擁して築かせた石垣は当時最先端にして最大級の規模を誇りました。
この敵を圧倒する石垣の合間を抜けて、お城の中心部へ乗り込もうとすれば、七曲り口道が行く手を阻んできます。これでは上手く直進できず、城兵から横の攻撃(横矢掛り)を受けて大ダメージを受けてしまいそうです。さらに、二の丸や本丸、天守へのルートには、それぞれおなじみの枡形虎口が設けられて、これまた直進できないようになっているのです。
このように、天下人としての権威だけでなく、本丸周辺の防御力を兼ね備えた織田信長の集大成である安土城ですが、実は一部の防御面に大きな不安を抱えています。
それは安土城の名物の大手道です。
何と、前方に全く障害がない状態で直進できるのです。幅は6m、長さは驚きの180m。
いくらお城の中心部を固めているとしても、これは大きな危険を伴います。
信長がどうしてこのような一本道を造ったかと言うと、これまた諸説ありまして、天下人としての権威を見せつけるためだとも、天皇の行幸を迎えるためだとも言われています。大手道の脇には羽柴秀吉邸や前田利家邸などがあったと言われますが、「守る」ことはあまり考えていない、戦国時代には考えられない信長特有の縄張りです。
もう1つ百々橋口(どどばしぐち)道という登城ルートもあります。当時、日常的に使われていた道は大手道ではなく、こちらだと言われています。こちらも比較的直線に近いルートで、道の脇を家臣たちの屋敷で固めることもなく、間に摠見寺(そうけんじ)を設けただけだったようです。
もちろん、お寺は有事の際に砦として利用しました。しかし、敵が攻めてくる道にお寺だけというのは、やはり危ない。
さらに、信長はお城のセキュリティーも甘々なんです。
先ほどの摠見寺は信長が自分を神として祀ったお寺で、自身の誕生日には領民たちに参詣を命じたそうです。つまり、領民は城内に出入りしてOKの日があったのです。また、1582年の正月には、安土城の大見学会を開催しています。この時は、1人100文の入場料を払えば、城内を観光できたそうです。
もう、機密情報が外部にダダ漏れなわけなのです。しかも、入場料を回収したのは信長本人だったとか。城だけでなく、自身のセキュリティーも甘々です。
それ以外にも、1581年の7月15日のお盆に、天守や摠見寺などを無数の提灯で飾り付けて安土城を鮮やかにライトアップさせたそうです。ということは、わざわざ城内に入らなくても、安土城の縄張りを分析することができたかもしれません。
このように、織田信長が築いた天下統一の拠点は、壮麗な天守と壮大な石垣を擁した近世城郭の先駆者ではあったものの、「守る」ことよりも「見せる」ことを重要視したセキュリティーが甘々な『最弱の城』の1つだったのです。