毛利新介 ~桶狭間で今川義元を討ち取った男~
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~
尾張の小大名だった織田信長が、その名を天下に初めて轟かせた「桶狭間の戦い」―――。駿河・遠江・三河の三国の太守であった今川義元が討ち取られた戦国の大転換点となった戦です。この時、義元の首を討ち取った人物こそ「毛利新介(もうり・しんすけ)」という一人の若武者であったのです。
名を「良勝(よしかつ)」といった新介の生年はわかっていません。織田家に仕えた「毛利」一族の縁者であると考えられ、出身は尾張(愛知県)だと言われています。織田信長に見出されて、信長の精鋭部隊である馬廻(うままわり)に選ばれました。
そして、時は永禄3年(1560年)5月19日―――。
桶狭間に打ち付けた激しい俄雨が止み、空が晴れると、信長は槍を突き上げ、突撃を下知しました。「今川の本陣はあそこである!皆の者、掛かれ!」
今川義元は桶狭間山に休息を取っていました。その本陣を確認した信長の馬廻や小姓たちは一斉に打ち掛かります。その中に新介の姿もありました。
(必ずや義元の首を刎ねてみせる…!)
新介は槍で突き倒し、刀で斬り伏せ、ひたすら義元の本陣を目指しました。今川軍は新介たち馬廻の突撃に恐れをなし、弓や槍などの武具だけでなく、義元の朱塗りの輿を打ち捨てるほど算を乱して崩れました。
「義元の旗本はあれだ!あれに掛かれ!」
信長からさらなる下知が飛びました。新介の前方には義元の旗本300騎あまりが一丸となって逃げ落ちています。その旗本の中心に義元がいることは明らかでした。織田軍は執拗な突撃を加え、義元の旗本はいつの間にか50騎ほどに数を減らしました。しかし、織田軍の損傷も激しく負傷した者や討死した者が多く出ていました。そのような乱戦の中、新介は必死に義元の旗本を追撃し、義元の姿を目にします。そして、信長の馬廻が義元に襲い掛かりました。
まずは、新介と同じく信長の馬廻である服部小平太(はっとり・こへいた)が義元を槍で突きます。これは致命傷には至らず、反撃に出た義元は小平太の膝を刀で斬り、小平太は戦闘不能になってしまいました。そこへ駆け付けたのが新介でした。
新介が懸命に突き出した刀は義元の身体を貫き、義元はその場に倒れ込みました。まだ息があった義元は執念の抗いを見せたましたが、新介は義元を組み伏せ、ついにその首を斬り落としました。
「今川義元、討ち取ったりー!!!」
新介は信長が見えるように首級(くびじるし)を掲げると、織田軍から鬨の声が挙がりました。
この時、興奮の絶頂にある新介は己の身体に異変が起きていることに気付きませんでした。新介が首を掻き切る際に、義元は最期の意地で新介の指に噛みつき、それを噛み切っていたのです。そのため、胴から切り離された義元の首は、新介の指をくわえたままだったと言われています。
「桶狭間の戦い」で一番の武功を挙げた新介ですが、この戦以外での戦場での目立った活躍はありません。それは新介が槍働き以上に官僚・文官としての能力をいかんなく発揮し、信長の傍らに常に仕える立場となったためでした。はじめは「黒母衣衆(くろほろしゅう)」に選抜され、後に「尺限(さくきわ)廻番衆(まわりばんしゅう)」となった新介は、信長の判物や書状に署名を残しています。
信長の天下統一事業を吏僚として支える新介ですが、その最期は突然訪れました。
天正10年(1582年)6月2日―――。
明智光秀が謀反を起こし、信長が入る本能寺を強襲しました。新介はこの時も信長に従っており京都にいまいた。しかし、既に敵に囲まれ火が放たれた本能寺には駆け付けることが出来ませんでした。そのため新介は、信忠(信長の嫡男)と共に二条御所に籠り、明智軍を迎え撃ちました。しかし、多勢に無勢、奮戦の末に信忠と共に討死を遂げました。
桶狭間で今川義元の首を取り、主君の織田信長を天下に知らしめた男は、その主君の死を追うようにその最期を迎えたのです。