「低迷期のカープ」を伝え続けた地元出版社とそれを支えた故・三村敏之の教え
広島カープ25年振りのリーグ制覇。そこにあった知られざるサイドストーリー。
■三村敏之氏の想像を超えた行動
しかし実際に中に入ってみると、信念だけではどうにもならない、想像以上に厳しい現実が待っていた。
2003年当時のカープはFA制度による主力選手の移籍、球界再編問題、新球場問題など、取り巻く環境も厳しく、今の“カープ人気”からはイメージがつかないほど厳しいシーズンが続いていた。そして広島アスリートマガジンの経営状態も厳しかった。
取材をする費用すらおぼつかない。そんな状況だった。
特に、春と秋のキャンプの時期、宮崎や沖縄に取材スタッフを送り出すための費用は生まれたばかりの会社にとって、大きな負担だった。
かといって、広島カープを中心につくる誌面においてその情報を掲載できなければ、存在する意味がなくなってしまう。三戸が苦悩の日々を送っていたとき、手を差し伸べてくれた人がいた。故・三村敏之である。
三村は三戸にこう言った。
「かならず現場で取材をしなさい。現場にいなければ意味がない」
三戸にとって三村は、広島商業高校野球部の大先輩だった。三村はことあるごとに編集部に顔を出し、大監督には似つかわしくない簡素な椅子と机の前で、編集部員たちに野球の見方、現場取材の大切さを説いた。その際、差し入れを欠かすことはなかった。
三戸にとって三村の言葉は、先輩後輩の関係を超える胸に突き刺さる言葉だった。けれど、その重要性は充分に理解したとしても、いかせんお金がなかった。やらないのではない、できないのだ。すると――。
三戸は今でも思うことがある。「あのとき、自分は三村さんの前で、どんな顔をしていたのだろうか」と。
なんと、三村は取材スタッフを自分の車に乗せ、キャンプ地・宮崎県へと走り始めたのだ。
(次回は月曜日更新予定です)