「煙が目にしみる家康の人助け」
季節と時節でつづる戦国おりおり 第265回
かなり前から人気の電子たばこ。アイ○スやらエ○リやらいよいよ普及して来たようで、街で見かける機会も多くなりました。煙は水蒸気だそうで、たしかに隣りに居ても臭くもない。これなら喫煙者も非喫煙車も共存できて、なかなか宜しいですね。まぁ、昔あっさりと禁煙に成功した元ディープスモーカーの小生からすると「そこまでして吸いたいか」という感じでもあるのですが。
今から406年前の慶長15年10月14日(現在の暦で1610年11月29日、江戸幕府が煙草の禁令を出す。前年に出された禁令の再確認だった。
ポルトガル船来航以来、さまざまな文物が日本に持ち込まれたが、そのひとつがこのたばこ。タバコの葉を刻んでキセルに詰め、火をつけ煙を吸引するという嗜好は、その後あっという間に日本中に広まった。
徳川家康の史料『当代記』には慶長10~11年より前から「日本の上下、これをもっぱらとす」とすでにたばこ依存者が蔓延しているという記述があり、幕府はこれを抑えるため躍起になっていたようだ。
前年の禁令に曰く、
「火事そのほか、費えあるゆえなり」(『慶長年録』)。
なにせたばこは火事の危険につながる上、農家が儲けの多いたばこ栽培に走れば幕府にとって何よりも大事な米の生産が減ってしまう。そして、長煙管を振り回してのし歩く傾奇者が治安を悪化させている事も大きかった。
今回の主題・慶長15年の禁令が出た当日、前将軍の家康はある人助けをしている。駿府から江戸へ向かう途中、道ばたで泣いている母子を見かけて事情を問うと、「火事を出してしまい、在所を追放されました」という。家康は「誰も火事を出したくて出したりはせぬ。わしは最近二度まで火事を出したが、どこにも追放されておらぬ」とこの母子を在所へ戻してやったのだ(『岩淵夜話別集』)。面白いことに、この5日前の10月9日、駿府城は火事に遭っていた。台所の梁の上から出火したといい、家康の側室・阿茶局の財産の金銀や衣類が焼失している。
実は、駿府城はこの件を含めてそれまでに3度、火事にみまわれている。最初は慶長12年、大奥から。2度目は慶長14年、本丸から。それぞれ城で働く女たちが原因というが、もし家康が2度火事を出したというのが本当なら、慶長14年と今回の火事については、本当は家康が張本人だったということになる。たしかに、自分が原因の火事だったなら、その5日後に出遭った母子に同情するのもうなづけるだろう。
では、その場合なぜ家康が火事を出したか、なのだが、ひょっとするとこれもたばこが原因かも知れない。というのは、家康が「たばこは健康に良い」と思い込んでいたふしがあるからだ。彼はかつて病気のときにポルトガル人のキリスト教宣教師・ジェロニモ・デ・ジェズスからたばこの献上を受け、その効能を聞いていた。『当代記』にも「(たばこを吸えば)諸病平癒す」と書かれている。もっとも、同書には「喫煙して急死する者もいる」などとあり、たばこが体に良いのか悪いのか、確信は持てなかったようだ。
健康オタクで薬も自家調合するほどだった家康のこと。たばこの効能について確かめようと駿府城の男女を実験台に吸わせていたとは考えられないか。そして、それが2度までも火事になった事で、「健康はともかく、たばこは火の不始末に直結する」と禁令に結びついた、と。
だが、立て続けに禁令を出しても、習慣性・中毒性のあるたばこの流行は止められなかった。慶長17年(1617)8月6日には煙草の売買をかさねて禁止し、売買者の財産を与えると密告を奨励。それでもたばこブームは収まらず、元和1年(1615)にはイギリス商館長のコックスが「男も女も、そして子供までもがこのハーブを吸うことに夢中になっている」と記している。幕府はこれでもかとばかり翌元和2年10月3日には栽培・売買を禁止し在所一円とその代官にも連帯責任を負わせるとまで厳罰化。それでも喫煙者を根絶することはできず、ついには税を徴収することでたばこを公認することになる。
いくら値上がりしても、非喫煙者から白い目で見られても、愛煙家は決してたばこをやめない。それは、4世紀前の先輩たちから受け継がれたタバコDNAのなせる業なのかもね。