第71回:「お酌のルール」
<第71回>
3月×日
【お酌のルール】
今日、打ち合わせに呼ばれ、西麻布に行った。
ほぼ生まれて初めての西麻布。噂には聞いていたが、実に大人の街である。
料亭やらビストロやらが軒を連ねている。僕が普段住んでいるところとは、大違いだ。
「あ!ここの自動販売機、ジュースが全部100円だ!」
「あ!軽い皮膚病を患った野良犬が歩いてる!」
「あ!いま、耳の中でなにかがカサリと音をたてた!そういえばもう三ヶ月も耳掃除していない!」
そんなことを言いながら胸をドキドキさせる以外、特にやることもない。それが僕の住んでいるところだ。
普段の幼稚な生活の中にはないアダルトな雰囲気に圧倒され、緊張しながら西麻布を歩く。
もう西麻布を歩いてる人全員が、大人っぽい顔をしている。なんというか、カルピスを薄めて飲んだことがなさそうな、なんならいつも原液で飲んでますみたいな、そんなブルジョアジーな顔である。
指定された打ち合わせ場所に到着した。普通の居酒屋である。よかった。僕は少し安心した。西麻布ということで、ノーパンしゃぶしゃぶとか、ガーターベルト寿司とか、トップレス手打ちうどんとか、そういう行き慣れていない店が打ち合わせ場所だったらどうしようかと不安になっていたのだ。どうでもいいが、トップレス手打ちうどんの店が本当にあったら、流行る気がする。
個室に通される。編集さん二人が座敷で待っていた。
いままでやり取りはメールだけだったので、お二人とちゃんと顔を合わすにはこれが初めてである。
初めて顔を合わせて驚いたのだが、お二人とも40代後半の方であった。てっきり同世代の編集さんだと思っていた 。40代後半、僕からすればかなり目上の方である。
僕は、少し動揺した。「西麻布で年上の人と仕事の話をする」。なんというか、「大人力」を試されているシチュエーションの気がした。大丈夫か、自分。昨日も切った爪をライターで焼いて「うわあ、臭え!」とか言って喜んでいた人間なんだぞ、自分。「大人力」なんてあるのか、自分。またしても緊張してきた。
まあ食事をしながらやりましょう、ということになり、飲み物を聞かれる。僕は瓶ビールを注文する。するとお二人も「じゃあ私も瓶ビールで」「私も」という流れになった。
嫌な予感がした。
瓶ビールが三本、目の前に置かれる。
これはやはり、「お酌」というやつをするべきなのか…?
僕は、「お酌」が上手くできない。
「三点倒立」も、「歯医者の予約」も、「IKEAの本棚の組み立て」も上手くできないが、「お酌」の上手くできなさは他の群を抜いている。
なんというか、「お酌」をするとき、つい照れてしまうのだ。
なにも考えずに、サッと相手のコップにビールを注げばいいだけなのに、なぜか変な自意識に苛まれてしまう。
「そんなに大人っぽい自分をアピールしたいのか」
「お酌」をすることで相手にそう思われてしまうのではないかと、ビクビクしてしまうのだ。
あと、僕はとても雑な人間だ。
昔、2秒だけ考えてペットの亀に「石」という名前を付けたことがあるほど、雑な人間である。
だから、相手のコップにビールを上手く注ぐ自信が、ない。
さあ、どうしよう。目の前に置かれた瓶ビールとコップを前にまごついていると、お二人が気を遣って僕に「お酌」をしようとしてくれる。
こんなことではいけない!今日、僕は大人になるんだ!慌ててその「お酌」を手で制し、返す刀でビール瓶を相手のコップに傾けた。
泡9:ビール1という状態にしてしまった。これはもう、作法とか気遣いとかじゃなく、嫌がらせの領域である。雑パワー、早くも炸裂だ。
「す、すいません!」
お二人ともにこやかに笑って受け流してくれている。なんと優しいジェントルマンたちなのだろう。しかし、内心では腸が煮えくりかえっている可能性だってある。「いますぐお前の住所を教えろ。火を放ちに行くから」とこのあと言われる可能性だってある。
気を落ち着けるため、僕は一度トイレに逃げ込んだ。
そして手元のiPhoneで「お酌のルール」を検索した。
お酌のルール。
「ビール瓶の場合は、瓶に貼ってあるラベルを上にする」
「手でラベルを隠さないように瓶の下のほうを片手で持つ」
「もう片方の手で、瓶の下側を支えるようにする」
「このとき、指をそろえるときれいに見える」
「泡がグラスの3割くらいになるように注ぐ」
なんだ、これは。なんだ、この細かさは。
悪魔を召喚する儀式なのか、これは。
トイレから戻ったあとも、僕は一度もきちんと「お酌」ができなかった。
大人の街にすっかり打ちのめされ、身体を引きずりながら帰宅、すぐさま爪を切り、それをライターで焼いて気分を落ち着けた。
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