『後漢書』の奴国も海人の国だった!? カギは“縄文”にあり
シリーズ「ヤマト建国は地形で解ける」②
縄文的な海人の活躍
朝鮮半島と北部九州をつなぐ海域を自由自在に往き来していたのは、縄文時代から継承されてきた航海技術を携えた人々だっただろう。弥生時代前期の北部九州の人骨は、当然のことながら、渡来系の影響を受けたものが多いが、西北九州、対馬、壱岐は、縄文的な骨格を守っている。
遺伝子学的にも北西九州の人々に縄文的な血が残っていることが分っている。だから、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝に、「建武中元(げんむちゅうげん)二年(五七)に倭の奴国(なこく)が朝貢してきた」といい、「印綬(いんじゅ)を下賜(かし)した」とある奴国の人たちも、おそらく縄文的な海人だった可能性は高い。
奴国一帯を支配していた古代豪族は阿曇(あずみ)氏で、神功皇后が新羅征討をしたとき、磯良丸(いそらまる)(阿曇氏)なる者を、先導役(楫かじ取とり)に命じたと伝わる。
この話は象徴的で、波の荒い玄界灘を越えて行くには、潮の流れを熟知した専門職の海人を召し抱える必要があったからだ。その阿曇氏が信州に地盤を持っていたのは、縄文時代から引き継がれていた日本列島を覆う海人のネットワークがあったからだろう。
丸木舟を造るには、まっすぐな巨木が必要で、そのために山岳地帯に拠点を造る必要があったし、海人は塩や貝を交易品として、内陸部にもちこんだのである。
ちなみに、弥生時代を代表する環濠集落として世間の注目を集めた吉野ヶ里遺跡は、有明海のすぐ近くに位置しているのだが、農耕の痕跡はほとんどなく、商都として栄えていたようだ。
北部九州といえば、渡来系稲作民に蹂躙されたイメージが強いが、よくよく考えてみれば、朝鮮半島との交流を支えていたのは稲作民ではなく、特殊技能を携えた、縄文系の海人だったわけだ。
「魏志倭人伝」は、倭人について、「男子は黥面文身(げいめんぶんしん)(入墨)をしている」といい、また「サメなどの敵から身を守るために入墨をし、倭人の水人は好んで水に潜っていた」とある。これは稲作民の習俗ではない。縄文時代から継承された、海人の民俗である。
日本の海人を考える上で、鍵を握っていたのは、縄文的な海人の存在である。
縄文時代の対馬には、西北九州から石器がもたらされ、黒曜石は朝鮮半島にも渡っていた。越高(こしたか)遺跡(長崎県対馬市上県町越高ハヤコ)から、縄文前期初頭の轟とどろき式土器や曽畑(そばた)式土器がみつかっている。
もちろん朝鮮半島と交流の証拠、朝鮮半島系の土器も出土している。朝鮮半島の土器は、九州の縄文土器の影響を受けていたという指摘がある。
弥生後期後半の壱岐のカラカミ貝塚からは、アワビやサザエの「高級食材」の貝殻が出土しているが、これらは「貴重な輸出品」だったのではないかと考えられている。また、天然真珠はアワビからとれるのだが、「魏志倭人伝」には、大量の真珠を倭国が送り届けてきたと記されているところから、真珠が壱岐の特産品で、輸出していた可能性も高い。
シリーズ「ヤマト建国は地形で解ける」③に続く。
【『地形で読み解く古代史』より構成】