転んでも立ち上がる。「苦しみ」との上手なつき合い方を覚える。ドイツ人禅僧の人生論
今日を死ぬことで、明日を生きる。②
日本仏教に魅せられたドイツ人禅僧、ネルケ無方の新刊『今日を死ぬことで、明日を生きる』より、珠玉のエッセイを紹介。生きるヒントが必ず見つかります。
苦しみの原因
多くの若者と同じように、私も若いころは生きることに悩み、ときには「死にたい」と思ったこともあります。実際に、薬を用意したり、ロープを用意したり、自殺の具体的な方法を模索したことはありませんが、それでも「生きるよりも死んだほうが楽ではないか」と何度も考えていました。
死後は、あらゆる感情から解放されて楽になれるような気がします。生きていて辛いことを全部考えると、一見死んだほうが早く楽になれそうです。
仏教界でも一時期、仏僧たちの間で自殺が流行り出したことがありました。
苦しみの原因は「執着」です。そして、何が一番根本的な執着かというとそれはやはり「生」への執着でしょう。しかし、自殺したほうが執着から自由になって、解脱(げだつ)できるのでしょうか。
確かに、釈尊(お釈迦様)は生きることは「苦」だと言いましたが、それは「死んでもいい」という意味ではありません。
実は、「執着から自由になりたいから自殺します」というのも、ひとつの執着です。
苦しみから自由になりたいからといって自殺したとしても、解脱はできません。
なぜなら、それは単に自分の執着に従っただけだからです。
仏教では、死ぬなら枯れるように、何もせずに自然に死になさいと説いています。
無理に自殺しなくても、80年、90年ほど生きれば、人は死ねます。
それまでは、苦しみを静かに見つめればいいのです。
実際の苦しみよりも大きく感じてしまうから、より苦しくなるのだと思います。本当は10の苦しみだったものが、20の苦しみに感じてしまう。その差は「苦しみたくない」という思いから生じる苦しみです。
人生も同じで、苦しいのは嫌だと思うから10の苦しみが100に思えたり、100が1000に思えたりする。冷静に見つめたら、人生は楽しいことばかりではありませんが、かといって辛いことばかりでもありません。
死にたいと思っている人でも、本当は死にたいわけではなく、生きる勇気がないだけかもしれません。
その心は、自分の部屋にいて外に出ようとしないのと同じ。「家の外に出て、転ぶかもしれない」と、身動きができないでいるのです。部屋に閉じこもり、「絶対に転ばない歩き方」をいくら考えても仕方ありません。
それでは、転んだらどうすればいいかというと、また立ち上がればいいのです。
何回転んでもまた立ち上がれば、少しずつ歩くのも上手くなり、あまり転ばなくなるでしょう。そして、「苦しみ」や「痛み」とのつき合い方もわかるようになるのでしょう。
『今日を死ぬことで、明日を生きる』より 次回③は「安楽死について」です。