マリアナ沖海戦と小沢治三郎中将④
小沢の決断で早暁の全機発艦
ミッドウェーの借りを返せ!
小沢が攻撃をとりやめたのは、搭乗員の練度が低く夜間発着は危険なうえ、陸上基地に着陸させれば反復攻撃ができないと判断してのことだった。
だが、肝心なときに弱気な一面が出たと指摘する者もある。結果論だが、この先制機に攻撃をしかけていたらアメリカ軍は上空護衛の戦闘機も母艦に収容しており、ミッドウェー海戦のリベンジができたかもしれない。小沢は昭和5年(1930)に欧米に出張した際、第1次世界大戦での薄暮戦、夜戦に関心を抱き、その後の研究で独創的な全軍夜戦思想を打ち出した。皮肉にも練度不足を理由に理念としていた夜戦を避けた。
翌19日午前6時30分、索敵機がサイパン西方に敵機動部隊を発見。7時25分、3航戦64機、続けて1航戦128機、最後に2航戦49機が発進した。
「これでミッドウェーの借りを返す」
小沢はアウトレンジ戦法に強い自信を抱き、今度こそ勝てると思っていた。
第1次攻撃隊の発進後、索敵機からグアム南西に別の空母群発見の報が届いた。さらにほかの索敵機から最初の発見場所の北方に別の機動部隊発見との通報が入った。小沢はしめたと思った。