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『平家物語』で問題視されている“地理的混乱”とは?「一ノ谷の戦い」を読み解く

激突! 源平合戦の軌跡 第4回

全国で反平氏勢力が膨張し、源氏を中心に“平氏討伐”が掲げられるさなか、平清盛は病没してしまう。弱体化した平氏は都を落ち、西へ逃れるも、頼朝・義経ら源氏は、一ノ谷、屋島へと、次第に追いつめて行く……。壇ノ浦で平家が滅びるまでの一部始終に迫る連載。

壇ノ浦の平知盛像(手前)と源義経像(奥)

鵯越方面からの奇襲攻撃は
一ノ谷後方からではなかった!?

『平家物語』の伝えるところについて、早くから問題視されているのは、『平家物語』に「一ノ谷のうしろ」と記されている鵯越(ひよどりごえ)とは、実は福原北部の山間部から福原に隣接する夢野(神戸市兵庫区)に出るルートにあたり、一ノ谷(同須磨区)とは約8キロメートルも離れているという地理的混乱である。
 そこで同じ『平家物語』でも古い要素を残すとされる延慶本の「九郎義経ハ一谷ノ上、鉢伏蟻ノ戸ト云所ヘ打上テ見レバ」という記述から、現在も一ノ谷後方にある「鉢伏山」「鉄拐山」からの「坂落とし」であったなどともいわれてきたが、近年、この地理的混乱を解消する史料として、のちに摂政・関白となった九条兼実の日記『玉葉』に見える合戦経過の記事が注目されている。

 そこに「範頼軍が大手口、義経軍が搦手口から攻め寄せたほかに、多田行綱——『平家物語』は鹿ケ谷の謀議のさい、彼が打倒平氏の企てを密告したとする——という戦場付近の地理にも明るい地元の武士が『山方』から攻め寄せ、真っ先に『山手』を落とした」とあり、この「山方」「山手」こそ先の鵯越にほかならず、とすれば、その攻略の結果、平氏方の守る大手口=生田ノ森、搦手口=一ノ谷の中央が分断されることになったという見方が可能になってくるからである。

 

 すなわち、一ノ谷の戦いにおいて源氏軍による鵯越方面からの奇襲攻撃はあったが、それは一ノ谷後方からのものではなく、大手口・搦手口の中央を分断する攻撃で、決行者も搦手軍総大将の義経ではなく、義経軍の別働隊ともいうべき摂津武士であったという説の提唱である。

『玉葉』の記事にもとづくこの説を裏付けるものとして、約150年後の南北朝の動乱当時、九州から東上した足利尊氏・直義軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の楠木正成・新田義貞軍とが、ほぼ同じ地域で戦った湊川合戦の時にも、福原北部の鵯越ルートから兵庫へ攻め込んだ足利方の軍勢が「山の手」勢と称されていること(『梅松論』『太平記』)、および一ノ谷出陣準備段階からすでに多田行綱が追討使義経の命を受けて、搦手軍のために摂津武士の動員にあたっていたと見られることなどがあげられているが、たしかに通説の変更を迫る、説得力に富む説といえよう。
 なお地理的混乱といえば、一ノ谷と鵯越を隣接するものとして描いた『平家物語』が、同様に、実際には10キロメートルも離れている大手口=生田ノ森と搦手口=一ノ谷とを近づけ、さらに戦況を一ノ谷にひき寄せて描いていることを指摘し、一ノ谷の戦いについて、その正しい名称は「生田ノ森・一ノ谷合戦」だとする見解も出されている。

◎次回は、5月14日(日)に更新予定です。

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樋口 州男

ひぐち くにお

1945年生まれ。山口県出身。日本史学者。現在、拓殖大学非常勤講師。日本中世の「歴史と伝承、絵巻・絵図」などを主に研究、執筆。著書に『中世の史実と伝承』(東京堂出版)、『日本中世の伝承世界』(校倉書房)、『武者の世の生と死』(新人物往来社)、共編著に『図説平清盛』、『図説平家物語』(ともに河出書房新社)、『再検証・史料が語る新事実・書き換えられる日本史』(小径社)、『木曾義仲のすべて』、『西行のすべて』(ともに新人物往来社)など多数。


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