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鍋島直茂の覚悟

鍋島直茂が死に様に見せた、戦国武将としての覚悟とは?

7/21テレビ東京系で放送の「開運!なんでも鑑定団」に
羽柴秀吉の書状が出ましたね。
弟の小一郎秀長に宛てて
因幡国鹿野城の攻略について指示する内容から、
天正9年(1581)10月2日のものと思われますが、
その中に「京での御仏事に千人ほど召し連れて上洛せよ、
ただし城攻めに支障を来すようなら無用」
とあるのが興味をひきます。
この京での仏事とは何なのでしょうか。
思い当たるのは、この時期妙心寺の住持が短い期間で交代し、
翌年二月には織田信長が
「寺の嘲弄たちが定めた法度を承認する。
この寺法を遵守し、違反者は処分せよ」と指示を出しています。
権力には一定の距離を置いていた妙心寺に対し、
あからさまに介入統制を強めようとしたわけですが、
ひょっとすると秀吉の言う「仏事」は住持の死にともなうもので、
そこに1,000人の兵を率いて乗り込み、
織田家の権威を誇示して支配を進めようというものだった
可能性もあるのではないでしょうか。
まぁ、現時点では妄想に過ぎないわけで
今後の研究を待たなければなりませんが。

話変わって、今から397年前の元和4年6月3日
(現在の暦で1618年7月24日)、
肥前佐賀藩初代藩主・勝茂の父、鍋島直茂死去。数え81歳。
「謀将」でも「勇将」でもあった直茂は、
耳にできた小さなイボをむりやりけずりとった事が原因で
その箇所が膿み、腫瘍となったために
京から名手の外科医を呼んだものの症状は改善せず、
強い痛みをともなうなかで死に至った。
とはいうものの、耳以外は至って元気で食欲も旺盛だったのだが、
直茂は腫瘍の全快が見込めないと悟ると、
「天下に知られる自分が、
腫瘍でただれて死んだと言われては口惜しい」と、
食を断ってみずから死を迎えたという(『鍋島直茂譜考補』)。

名を惜しむこと、かくの如し。
私ごとながら、筆者の明治生まれの祖父もその死の際、
意識もしっかりありながらひと言も発しませんでした。
言葉が乱れて恥を残すことを恐れたのだろう、
と周囲は言っておりましたが、昔の人のそうした意識は、
私たちもしっかりと持つべきではないでしょうか。
まぁ元気なうちから妄言をはきまくる
エライさんには関係ない話かも知れませんが(笑)。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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