家来と分かれて一人きりの逃亡
【関ヶ原の戦い】石田三成の死に様 第7回
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍の実質的な司令官として指揮をとった石田三成。しかし小早川秀秋の裏切りなどもあり敗北。敗軍の将として斬首に処せられたが、豊臣家に忠義を尽くした末の悲劇だった――。
三成は武運に恵まれなかったことを悔しがりながら、わずかな手勢を引き連れて後方の伊吹山中に逃れた。三成が自刃(じじん)しなかったのはあくまで大坂に入って再起を期そうと考えていたからである。
三成は人目につくのを避けるため、途中で家来たちと別れ、わずかに渡辺勘平・磯野平三郎・塩野清介の3人だけを同道して、近江浅井郡の草野谷を経て大谷山に逃れた。
その頃、三成の居城、佐和山城も総攻撃を受け、18日に陥落した。父正継(まさつぐ)、兄正澄(まさずみ)をはじめ一族郎党は城と運命を共にした。家康は近江出身で三成とも親しかった田中吉政(三河岡崎城主)に、寄る辺を失った三成の捕縛を命じた。
家来たちとも別れを告げ、ただ一人となった三成はさらに山間を北に向かう。伊香(いか)郡に入り、古橋(ふるはし)村の法華寺三珠院に身を寄せた。ここは三成の領地で住職の善説とは親しかった。(続く)
文/桐野作人(きりの さくじん)
1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。