聖徳太子は「摂政」ではなかった
『日本書紀』が伝える聖徳太子の「本当の姿」に迫る!③
耳がよく聡明で、法隆寺を築き仏教を広め、推古女帝の摂政として活躍した人物──。聖徳太子に関する一般的なイメージはすべて『日本書紀』の記述が元になっている。『日本書紀』が書かれた過程を知れば、その真実の姿が見えてくる! 聖徳太子の実像に迫る連載。
◆太子は「摂政」ではなかった!未成立だった皇太子承制度
聖徳太子は推古天皇の即位にともなってその皇太子に立てられ、摂政に任命されたといわれるが、それは史実とはいいがたい。
まず当時、皇太子制度は未成立であった。この時代は皇位継承候補者が複数いて、皇太子のように特定の皇子を次期天皇に確定しておくというシステム自体がなかったのである。太子は有力な皇位継承資格者には違いないが、いわゆる皇太子ではなかった。
また、摂政とよばれるポストがあったわけではなく、天皇の統治をそのミウチが輔佐するというシステムがこのように表現されたにすぎない。ただ、この時太子はまだ20歳前後だったはずであるから、政治的経験や実績が十分でないこの段階で政権に参画したとは考えがたい。
ここで、この時代の皇位継承がどのようになっていたかを説明しておく必要があろう。天皇の前身にあたる治天下王(大王)は、基本的にそのもとに結集した有力豪族たちの合議により選ばれ推戴されていた。6世紀の後半、聖徳太子の祖父、欽明天皇の没後は、それぞれ母を異にする欽明の皇子たちが年齢順に即位していったようである。それは、天皇には執政能力がもとめられており、年齢を重ねて政治的経験や実績が豊かであれば、そのような能力がおのずとそなわっているに違いないと考えられたからであった。
〈次稿「皇位継承をねらっていた聖徳太子の叔父」に続く〉