明治政府の疑心暗鬼が起こした西南戦争
明治維新の功労者から「賊軍の将」へと転落
◆明治政府の疑心暗鬼から西南戦争へとなだれ込む
「この頃、鹿児島県全体は独立国家の様相を呈していました。さらに国内最大級の火薬工場が国分(こくぶ)にあったことから、西郷には軍事力があると思われていたのです」。
こうした状況を木戸孝允にまで非難された大久保利通は、西郷との訣別を決意。川路利良(かわじとしよし)に対し、鹿児島に密偵を送り込むように指示をした。その際、私学校が「ボウズ(西郷)ヲ、シサツセヨ」という電報を入手する。これは「視察」と「刺殺」というふたつの解釈ができる電文だ。しかも捕らえられた密偵は、これは西郷暗殺計画だと告白する。これに激昂した私学校生徒らは、明治政府が差し押さえようとしていた大量の武器弾薬を奪ってしまう。
「大隅半島に滞在していた西郷は、知らせを聞き“わがこと止む”と口走ったそうです。自分が鹿児島にいれば防げた、そう悔やんだのでしょう。さらに自分が政府に留まり、歯止めをかけるべきだったという思いもあったのでしょう」。
だが事態は西郷の思いとは裏腹に進み、弾薬庫を襲撃する人数は日増しに増えていった。結局、西郷は挙兵やむなしと判断。そして幹部会議の席上「おいの体は差し上げもそ」と発言している。その言葉通り西南戦争で西郷は作戦を立てたり、追い詰められるまで陣頭で指揮を執らなかった。桐野利秋(としあき)らにすべてを任せ、武士としての自分を捨てたのである。さらに最期は形式だけの切腹をせず、腹心の別府晋介に首を斬らせた。
「西郷はかつて月照とともに入水自殺を図りました。そこで生還してからは、自らの命を天に預けた心境だったと思います。だから自決など考えられなかったのです」。
そのカリスマ性ゆえ田家に隠棲することも許されず、明治10年(1877)9月24日、西郷は波乱に満ちた生涯を終えた。
〈雑誌『一個人』2017年12月号「幕末・維新を巡る旅」より構成〉
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